<豪 州>

広さは日本の20倍


シドニー全景

 オーストラリアから戻って10日余り、初めて行った国なので、わずか1週間ほどの滞在でも印象が強く、このところオーストラリアのことばかり考えている。

 40年以上前に買った平凡社の百科事典15巻を引っ張り出して、関連する項目を拾い読みしたりした。今ネット上にはウィキペディアという百科サイトがあるのは、むろん承知だが、それをここに引き写したのでは余りにお手軽だし、第一だれが書いたか分からないので信頼性も薄い。ウィキペディアは既知の事柄を再確認するのには便利だが、未知のことをそこから調べるのは危険である。

 さて、オーストラリア大陸は、いうまでもなく原住民アボリジニ人のふるさとである。そこへイギリス海軍のジェームズ・クックがやってきたのが1769年。東海岸のシドニーやブリスベーンの辺りを調査し、イギリス領として宣言した。

 領土の宣言とは、どうすればいいのか。地球の真ん中で天に向かって叫べば良いのか、国連にでも書類を提出するのか。いずれにせよ、コロンブスのアメリカ大陸発見と並んで、まことに勝手な話である。事実アメリカでもオーストラリアでも、原住民の大量殺戮がおこなわれた。

 日本列島だって、マルコ・ポーロが発見したなどと言われたら、われわれ原住民は怒り狂うだろう。しかし、この問題に余り深入りするとキリがないので、ここでは歴史上の事実だけをたどることにする。

 折からアメリカ大陸では、イギリスからの独立をめざす動きが始まり、1775年ボストンの武力衝突をきっかけとして独立戦争に及ぶ。かの独立宣言が出されたのは翌76年だが、イギリス軍が敗れて最終的な独立が達成されたのは1783年であった。


シドニー市内中心部を一方向だけで循環する便利なモノレール

 この事態を受けて、イギリスはアメリカをあきらめ、オーストラリアへの植民を重視するようになった。一つはアメリカを追われた親英派の困窮者を救うため、もうひとつはアメリカに代わる流刑地を確保するためである。

 最初の流刑囚およそ700人がシドニーへ上陸し、植民地の建設に取りかかったのは1788年である。以後1868年流刑制度廃止までの80年間に、およそ16万人の囚人がオーストラリアに送りこまれた。これと平行して自由移民も増えつづけ、内陸奥地(the Outback)へ向かって開拓を進め、小麦栽培と牧羊を中心として経済的な基盤をつくっていった。この歴史的な経緯から、オーストラリアは親英国家である。というより、今も元首はイギリス国王であり、イギリス連邦のひとつである。

 町の中を歩いていてもリバプール通りとかチェルシー通りとかウィンザー通りとか、イギリスの地名をそのまま持ってきたような名前が多く、シドニーにはハイドパークなどという公園もある。

 そこへゆくとアメリカは本国と戦争したほどだから、イギリスの地名――たとえばヨークやイングランドなどにも新(ニュー)の字を頭につけて対抗意識を表し、あとはワシントンやヒューストンなどアメリカ建国に功績のあった人の名前が地名になっている例が多い。

 やがてオーストラリアの開拓が進むにつれて、地域による政治的、社会的な違いが大きくなる。その一方で植民地という立場を脱して、独立国となる動きも出てくる。その結果1901年、6つの州から成るオーストラリア連邦(Commonwealth)が発足した。この頃までに人口は380万人を超える。

 しかし各州間の考え方の違いは大きく、意見の対立も激しくて、連邦議会や連邦政府の権限はきびしく制限され、州権を尊重する憲法と行政組織がつくられた。

 オーストラリアの6つの州とは、下図のようにクイーンズランド州、ニューサウスウェールズ州、南オーストラリア州、西オーストラリア州 、ヴィクトリア州、タスマニア州で、ほかに首都キャンベラ周辺のオーストラリア首都特別地域とノーザンテリトリー(北部準州)がある。

 これら州ごとの独立性は非常に強い。そのためオーストラリアの航空医療に関しても、全体像をつかむのに骨が折れる。

 内陸奥地の救急医療を主目的とするフライング・ドクター・サービスも、全国的な組織であると同時に、4つの地域事業部に分かれて仕事をしている。それ以外の小さな航空医療機関は全て州内または地域内の組織で、お互いによそのことは余り知らない。

 もとより日本の20倍という広い国土のせいでもあり、西ヨーロッパならばイギリス、フランス、ドイツ、スイス、スペイン、ポルトガル、オランダ、イタリア、ベルギー、ルクセンブルクの10ヵ国を合わせて、丁度オーストラリアの3分の1になるだけである。これら各国の制度が異なるように、オーストラリア6州の制度や考え方が異なるのも当然かもしれない。

 しかし、たとえばアメリカはオーストラリアよりも広く、50州に分かれてはいるが、アメリカ航空医療学会(AAMS)という協会があって、ヘリコプター救急拠点の所在地や前年の出動実績など、全体像を見せてくれる。

 アメリカは独立戦争や南北戦争を通じて、星条旗を中心とする求心力の醸成に一所懸命だった。今もそれはつづいている。オーストラリアはそうではなくて、わずか2千万の人が広い場所でゆったりと、お互いの領分を侵すことなく暮らしているのだ。

 このように「隣は何をする人ぞ」といった気分なので、隣のことを聞いてもよく知らないし、したがって全体像もなかなか分からない。

 それは、しかし、狭い土地にひしめき合って暮らす日本人の勝手な言い分であろう。シドニーでタクシーに乗ったときも、運転手が日本人かと問うので、そうだと答えると、「日本の人口は1,000万くらいか」と訊く。その10倍以上だと答えると、危うくハンドルを取られそうになるほど驚いたようだった。オーストラリア人から見てあんな狭いところに、よくまあそんなに沢山の人が生きてゆけるのかと思ったに違いない。

 英エコノミスト誌が2008年4月、世界の暮らしやすい都市のランキングを掲げている。それによると、上位10都市のうち4都市がオーストラリアから選ばれている。メルボルン、パース、アデレード、シドニーである。また第1位はバンクーバーで、トロントとカルガリーを加えた3都市がカナダである。この両国はイギリス連邦だから、英エコノミスト誌のひいき目のような感がなきにしもあらずだが、世界で最も知的な雑誌といわれる刊行物だから、そんなかたよった記事は載せないだろう。

 実際は保安、衛生、文化、環境、教育、インフラなどの要素について採点した結果である。そして上位の都市が選ばれた理由として、エコノミスト誌は都市としての基礎的な施設が整備され、レクリエーション活動が活発で、犯罪が少なく、人口密度が比較的低いことを挙げている。

 オーストラリアと聞けば、歴史的には流刑地だったことを想い出す人も多いかもしれぬが、何も凶悪犯ばかりが送りこまれたわけではない。軽犯罪の人も多かったとかで、いずれにせよ現在、犯罪は少ない。これだけ広大なところにくれば、気持ちも大きくなったのではないかと思う。


シドニーのハーバーブリッジとオペラハウス

(西川 渉、2009.2.19)

【関連頁】

   フライング・ドクターを尋ねて(2009.2.10)

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