<本のしおり>

再びアメリカの戦争犯罪

 昭和16年12月8日に始まった日米戦争の発端は、ルーズベルト大統領が「日本に対して根深い悪意をいだいていたから」であった。そう説くのは『なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか』(加瀬英明、祥伝社、2012年8月刊)である。

 悪意の根源は、日本が日露戦争に勝ったことから、次は「アメリカがアジア太平洋に持っていたフィリピン、グアム、ハワイなどの領土や、中国大陸にあるアメリカの権益に対する新たな脅威」になるという妄想であった。

 そのため先ずは、日本と戦っている中国の蒋介石政権を支援することとし、米陸軍のシェンノート大尉を派遣して「フライング・タイガーズ」の名で知られる飛行隊をつくった。アメリカから供与した爆撃機を操縦するのは米軍の現役パイロットたち。形式上は軍を退役した「義勇兵」と称していたが、実質は「現役軍人と変わらない。これは、国際法の重大な違反」であった。

 その一方で1938年(昭和13年)、アメリカは航空機メーカーに対して日本への飛行機と部品の輸出を禁じた。1940年には「アメリカ陸海軍の暗号解読班が、日本の外交暗号のすべてと、日本海軍の暗号の一部を、解読することに成功した。……これ以降、アメリカは日本政府の動きを、刻々と手に取るごとく知ることができるようになった」

 いっぽう第2次大戦中のヨーロッパでは、1940年6月ドイツがフランスを降伏させ、イギリスへの空爆を強化した。そのためチャーチル首相はアメリカの応援を希望し、アメリカも参戦したいと考えた。しかしルーズベルト大統領の選挙公約が「外国の戦争に加わることは絶対にしない」というものだったため、簡単に参戦することはできない。

 しかし「攻撃を受けた場合を除いて」という条件を満たせば参戦も可能ということになり、日本側から攻撃させる「参戦外交」が始まった。そんなところへ、日独伊3国同盟のニュースが入ってくる。それを聞いたルーズベルトは「これで日本をわれわれとの戦争に誘いこめる」と側近に語ったという。

 1941年に入ると、アメリカはイギリスやオランダと語らって、東南アジア各地に産出する石油、ゴムなど、天然資源の日本向け輸出を停めさせた。同時に日本近海に米海軍の巡洋艦を出没させて日本を挑発する。これも国際法違反である。さらに国務省の中に「特別研究部」を設け、日本を屈服させたのちにどう処理するかの研究を開始した。

 アメリカ陸海軍も「日本本土爆撃計画」の立案に着手した。その作戦計画を大統領が承認したのは、1941年7月23日。日本の真珠湾攻撃の半年近く前に当たるが、米陸軍は早くもB-17など長距離爆撃機150機と戦闘機350機を蒋介石軍に渡し、中国空軍機に偽装して東京、横浜、京都、大阪、神戸を空爆する準備を始めた。

 ただし、この計画は間もなくヨーロッパ戦線が急迫して、爆撃機をイギリスへ送ることになったため実行できなくなる。実行していればルーズベルトの意識的な騙し討ちになるはずだった。にもかかわらずアメリカ人は今でも「真珠湾攻撃が日本による卑劣な騙し討ちだったと信じている」。このことは2001年9月11日、ニューヨークのワールド・トレード・センターがテロによって倒壊したとき「リメンバー・パールハーバー」の合い言葉が多くのアメリカ人の間で想起されたことでも分かる。

 戦前の日本はアメリカとの戦争など全く考えていなかった。しかし天然資源の禁輸を受けて、日米間の障壁を取り除くため、近衛首相はルーズベルト大統領とハワイで首脳会談をおこない「膝をまじえて率直に意見を交換し」諸問題を解決したいと考えた。

 その希望を駐米野村大使を通じてアメリカ政府に申しいれると、ルーズベルトはハワイではなくアラスカで会談したいと答えて、日本側に期待を持たせた。しかし、その後、ルーズベルトは「首脳会談をおこなう前提として……(事前に)原則的な合意が必要として、さまざまな難題を突きつけてきたために、トップ会談は、なかなか実現しなかった」

「もとよりルーズベルト大統領は日本と戦うことを決めていたので、日米交渉が妥結することを望んでいなかった。日本をあやしていたのだ」。しかし日本側の精神状態は、決してあやされているようなものではなかった。

「昭和天皇は日米開戦に至るまで懊悩(おうのう)された。天皇は一貫して平和を強く望んでおられ、対米戦争について深く憂慮されていた」

 そんな中で9月6〜7日、宮中で御前会議が催される。この2日目の席上、天皇が詠み上げられたのが

 よもの海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ

という明治天皇の御製であった。「近衛首相はその日の夜、日記に『全員恐懼して、しばらくは一言も発するものなし』と記した」

 そしてワシントン駐在の野村大使には「日米国交ノ破綻ヲ救フノ大決意ヲ以テ十全ノ御努力アランコトヲ懇願ス」という訓令が発せられた。この電報は、そのままアメリカ側に解読される。

 10月には東條陸相が首相になった。これは戦争をするためではなく、木戸内大臣が「東條であれば……血気にはやる軍を抑えて、対米交渉をまとめることができると考えたからだった」。というのは当時、日米交渉が妥結すれば陸軍の一部が2.26事件のような反乱を起こしかねないという危惧があったからで、東條もまた天皇のご意志に従うつもりだった。

 しかしアメリカは「あたかも東京の大本営政府連絡会議に出席しているかのように」日本政府の考えと動きを何もかも知った上で「日本のほうから攻撃せざるをえないように仕向け……彼らを誘導して……最初の一発目を撃たせる」策略を進めつつあった。

 その結果が11月26日、ハル国務長官から野村、来栖両大使に手交された『ハル・ノート』である。記載された10ヵ条の内容は「従来の交渉結果をまったく無視したもので、日本としては了解しがたいものだった。政府と軍の誰もが、アメリカの最後通牒と判断した」

 東郷外相は後に、これを読み終わって「眼もくらむ思いがした」とふり返り、イギリスのチャーチル首相ですら「日本大使があきれ返ったというのは、その通りだったに違いない」と回想している。さらに戦後、インドのパル判事は東京裁判の判決書の中で『ハル・ノート』について「たとえモナコのような小国であったとしても敢然として戦うことを選んだであろう」と書いている。

 こうした下ごしらえをした後、ワシントンはハワイのキンメル太平洋艦隊司令官に空母2隻に陸軍の戦闘機を載せ、新造艦および新鋭艦19隻を伴ってミッドウェー島へ運ぶよう命令する。これで米海軍の主力艦と航空機はまんまとハワイから避難し、真珠湾に残ったのは戦艦アリゾナなど、ほとんどが第1次大戦からの旧型艦ばかりとなった。

 そこへ12月8日、日本海軍のゼロ戦を主力とする攻撃が始まる。この急襲を、ワシントンは事前に知っていたが、現地のキンメルや陸軍司令官は不意をくらった。ルーズベルトの故意によって、知らされていなかったからだ。

 真珠湾は劫火に包まれたが、これは「日本の独り芝居」だったと著者はいう。「日本を計画的に挑発して、アメリカを攻撃させ」たルーズベルトは「稀代の魔術師」だった。しかも「日本を罠にかけただけではなかった……日本が真珠湾を攻撃することを知りつつ、ハワイの太平洋艦隊を生け贄(いけにえ)にしたのだ」。むしろ彼らは日本軍ではなく、「ルーズベルトによって奇襲された」ようなものだった。

「翌日、ルーズベルト大統領は議会両院総会に臨んで『アメリカは日本による卑劣きわまる騙し討ち(スニーク・アタック)を蒙った。アメリカにとって屈辱の日である』と述べ……議員が総立ちになって、割れるような喝采の中で対日宣戦布告を承認した」


戦艦アリゾナの轟沈

 さて、本頁では1週間ほど前、終戦時の日本がアメリカやソ連の欺瞞と詐術に嵌められ、原爆の人体実験に供されると共に、北方領土を奪われたとする『アメリカの戦争責任』を読んだばかりである。今回は開戦もまたアメリカの詐術だったという本を取り上げた。

 といって、ここでアメリカを非難するつもりはない。日本人がお人好しかどうかは知らぬが、少なくとも外交面で騙されやすいことは、これらの歴史が証明している。最近の安保反対騒動も憲法改正問題を含めて、国会で無意味な質問をくり返した議員の一部を筆頭に、メディアも、多くの左巻き団体も、ルーズベルトや戦後のGHQによる騙しからいまだに醒めきれていないことを示すものといってよいであろう。

(西川 渉、2015.10.6)

【関連頁】
   <本のしおり>アメリカの戦争犯罪(2015.9.30)

     

 

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