<小言航兵衛>
翻訳する資格 「9/11委員会レポートダイジェスト――同時多発テロに関する独立調査委員会報告書、その衝撃の真実」(WAVE出版、2008年5月31日刊)という本を手にした。
しかし、どうも読みにくい。内容がむつかしいのではなくて、翻訳の日本語がヘンなのである。
書いてあることが頭の中に流れこんでこないのだ。でこぼこ道をゆくように、立ち止まったり、後戻りをしないと情景が浮かんでこない。まるで不完全な翻訳ソフトで訳したのではないかと思われるような文章で、ちゃんとした日本語になっていない。
テロ攻撃で崩壊したワールド・トレード・センターは、ニューヨーク・ニュージャージー港湾局(Port Authority)の所有だったが、これが「湾岸局」と訳してある。テロリストがアラブ人だったので、それに合わせたのか。それともニューヨークの周辺に「湾」があるのか。不明にして、湾岸局という言葉は聞いたことがない。
問題はしかし、訳語もさることながら、文章である。ヘンな日本文で書いてあると、翻訳自体が正しいのかどうか不安になってくる。
不安ながらも読んでゆくと、今度は原文で78階と書いてあるのに、わざわざ77階と訳してある。ヨーロッパでは日本の2階にあたるフロアを1階というが、ニューヨークの78階は日本の77階に当たるらしい。かと思うと、次のパラグラフでは断りもなく78階に戻っている。
超高層ビルに大型旅客機が飛びこんで、中にいた人びとは大混乱となり、右往左往している場面だが、訳者までが一緒になって右往左往である。
翻訳の混乱を我慢して読んでいくと、不意に「ニューヨーク消防局のヘリコプターからの有視界情報の報告は、なにもうけとっていなかったのだ」という意味不明の文章が出てくる。おや、ニューヨーク消防局にヘリコプターがあったのか。いつの間に買ったのだろうという疑問が、実はこの訳文と原文を照合してみようと思ったきっかけである。
その前に「有視界情報の報告」とは何か。原文は We didn’t receive any reports of what was seen from the [NYPD] helicopters.と書いてある。ヘリコプターから見た周囲の状況は何も知らされていなかったという意味であろう。ところが、ヘリコプターが出てきたので、訳者はにわかに「有視界」という航空用語を使いたくなったにちがいない。そのため却って意味が分からなくなった。
そしてヘリコプターの所属はどこか。原文では the [NYPD] helicopters と、わざわざカッコをつけて断ってある。NYPDとは、いうまでもなくNew York Police Department の略で、ニューヨーク警察のヘリコプターということになる。
ニューヨークの消防には、もともとヘリコプターがなかった。そのため緊急時には消防隊員も警察機を利用することができるという協定まで結んでいる。
しかし、いつぞやも本頁に書いたが、両者の反目はなはだしく、911テロの前にも後にも、消防隊員が警察機を利用した実例はない。このあたりにもテロの被害を拡大した遠因どころか、直接の原因があるはずで、本書にも警察と消防の非協力的な反目の場面が出てくる。
もうひとつ、これは翻訳の問題ではないが、あのときワールド・トレード・センター上空には警察のヘリコプター2機が旋回していたらしい。しかも屋上には緊急用のヘリポートが設けてあった。にもかかわらず屋上へ出る非常口に鍵がかかっていて、誰も逃れ出ることはできなかった。
そこで、もし鍵がかかっていなければどうだったか。航兵衛はこれまで、屋上がすべて煙に包まれていたわけではないので、ヘリコプターが着陸して、人を助けることができたはずと思っていた。
ところが、この報告書では、上の写真のように煙のこない部分もあったが、ビルの高熱のために、ホイストの届く高度ではホバリングができなかったと書いてある。これでは、吊り上げ救助もできない。
1機のパイロットが低く降りて行ってホバリングしようとしたが、熱のために不可能と判断したというのである。上昇気流がよほど激しかったのであろうか。
やがて10時4分、そのヘリコプターから無線が入る。北タワーの上の方が「赤く輝いている」という通報である。10時8分ふたたび、北タワーがもちそうもないというパイロットからの通報。すでに9分前に南タワーが崩壊していたので、北タワーも同じようになるのではないか――上から見ていたパイロットには、容易に予想できたであろう。
果たして20分後、北タワーも大きな土煙の中に崩れ落ちた。
さて、アメリカ政府の公式調査委員会が出した「911委員会報告書」(The 9/11 Commission Report)のどこに何が書いてあるか。それだけを知るためならば、この程度の訳書でもいいかもしれない。しかし本書は全文の訳ではない。「その衝撃の真実」といった陳腐で大げさな副題でも察せられるように、一種の読み物として訳しているらしい。それならば、もっと読みやすい日本語にしてもらいたかった。
読み物としても読めないし、抄訳だから索引にもならない。まことに困った本である。
話は飛ぶが、別宮貞徳先生の「誤訳迷訳欠陥翻訳」という本が出たのは1981年だった。今から30年近く前のことで、非常に面白かったのを憶えている。
以来、先生は長年にわたって「こんな翻訳に誰がした」「翻訳はウソをつく」「翻訳の落とし穴」「悪いのは翻訳だ―あなたのアタマではない」「こんな翻訳読みたくない」「やっぱり誤訳だったのか」などの翻訳批評書を次々と出してこられた。航兵衛も飽きずに読んできた。
最近も「さらば学校英語―実践翻訳の技術」や「達人に挑戦―実況翻訳教室 」といったちくま学芸文庫の本が出ている。
その最初の「誤訳迷訳欠陥翻訳」には次のように書いてある。「問題はどうすれば欠陥翻訳の数が減るかである。……まちがいも多ければ、文章も読むにたえないものが少なくない。大学の先生といっても、外国語を読む力、日本語を書く力は専門の能力とは別だから、翻訳がよくできるとは限らない。それほど自信のない方は、安易に翻訳に取り組むことはご遠慮願いたい」
そういえば、この「911委員会レポートダイジェスト」の訳者も3人のうち2人が大学の講師、1人が危機管理問題ジャーナリストという肩書きであった。
【関連頁】
報告書原文
閉ざされた非常口
アメリカの911同時多発テロ
911最後の飛行経路(小言航兵衛、2008.8.13)
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