<小言航兵衛>

断交のすすめ

 

 わが家の周りにはロクな連中が住んでいない。通りをへだてた向こうのC家は、むやみに大きな敷地をもって威張っているが、今の当主は元は召使いか何かで、いつぞやどさくさにまぎれて主人を追い出し、自分が主人の座についてしまった。

 しかし、妙な思想にかぶれているので、こちらが祖先の墓参りに行ったりすると、お前の先祖は犯罪人だから墓参りはけしからんなどと言ってくる。実際は無実の罪で刑に服したのだが、正しい歴史認識を持てなどと口先だけは偉そうなことを言う。おまけに、うちの子どもが読んでいる本にまでケチをつけて祖先を無視させ、わが家系の断絶をたくらんでいる。

 そのうえ、このC家はいつの間にか通りのこちら側にまでやってきて、作物を盗むようになった。注意をすると、この土地の権利は自分の方にあるなどと、盗人猛々しいことをぬかす。

 C家のこちら側にあるK家は本来、C家とは親戚でも何でもないのだが、いつの間にか家来のような関係を結び、C家の真似をして当方の墓参りや子どもの本に苦情を言ってくる。

 最近は隣接するわが家の敷地に入りこみ、塀を巡らして番小屋のようなものを建て、そこに番人を住まわせるようになった。追い出すのは簡単だが、実力行使に出ればおそらくヒステリー状態になって何をしでかすかわからない。そのくせ当主は気が弱く、家族の注意が自分に向かうのを避けるため、こちらの悪口ばかり言う。

 K家の向こうにあるのはN家である。彼らは元来一つの家だったが、N家が無理に分家をさせられた。その分家に際して素性不明の男が入りこんで当主となり、家の中でも独裁的な権力をふるうようになった。あとの家人たちはみんな奴隷のようになって厳しい監視下に置かれ、ひどい飢えにあえぎながら家を出ることもならない。

 それというのも、北向きの土地で日あたりが悪く、作物がうまく実らないからだ。そのため奴隷たちに偽金や麻薬をつくらせ、金もうけのタネにして、当主だけが周囲に女をはべらせ、世界中から高価な食品や宝飾品を集めて、家人の困窮をよそに贅沢三昧の生活をしている。

 最近はどこから貰ったか、おもちゃの鉄砲を改造して殺傷力を強めるに至った。これを何かといえば振り回し、ときにはわが家の庭先にも弾を撃ちこんだりして、脅しをかけてくる。そればかりか子どもたちをさらって行き、一種の人質にしてしまった。

 その人質を返さぬばかりか、貧しいからと言って使いを寄越し、食べ物を貰いにくる。この物乞いの性癖はN家ばかりでなく、C家もK家も同様で、わが家の勤勉な収入は近所付合いのしるしとして分け与えてやらねばならない。

 全くロクでもない連中ばかりで、こんなタカリ屋どもは顔を見たくもないし、つきあいも御免蒙りたい。といって引っ越しもならず、こちらは近所付き合いのつもりだったが、向こうは近所突き合いをしてくるので困り果てているところである。

 そんな空想をしながら『なぜ中韓になめられるのか』(屋山太郎、扶桑社、2005年9月20日刊)を読んだ。本書は「日本が最も安定的に栄えたのは、実は中国と疎遠になっていた期間だけ」ということから始まる。

 日本と大陸との正式国交は607年、小野妹子の遣隋使にはじまり、遣唐使につながった。しかし決して朝貢外交ではなく、聖徳太子の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」というように対等の外交である。ところが、この書簡に隋の煬帝が怒って、早くも日本に難癖をつけ始めた。そのため「中華圏との正式国交を絶ち、菅原道真の進言により894年には遣唐使も廃止された」

 以来およそ1,000年にわたって、日本は泰平を享受してきた。この間、鎌倉時代には2度にわたって元が攻めてきたが、元寇なんぞ水際で防いだことはご存知のとおり。

 そしてペリーの黒船で開国ということになり、「日本は再び大陸とかかわりを持つようになる。以来、日清戦争、日露戦争、辛亥革命、五・四運動、満州事変と続いて大東亜戦争が終わる1945年までの75年間はまさに泥沼にはまり込んだような時代だった」

 しかし1945年から1972年の日中国交再開まで、27年間は中国との音信途絶えて、日本は再び大陸とのトラブルなしで平穏かつ幸せに過ごすことができた。ところが、その後、現在までの30年余りは、事あるごとに文句をつけられている。

 福沢諭吉も、このことを見越して1885年「脱亜論」を発表し、「中・韓と付き合えば身の破滅だ」と叫んだ。事実、1,200年の歴史を見ても中国との国交を絶つことによって悪影響を受けず、平和を保ち、経済や文化を成熟・発展させてきたのである。

 こうした安寧平和な歴史が、わずか30年あまりで崩れてしまったのは何故か。いうまでもなく、日本の政官界のリーダーたちの言動が原因であり、日本に向かってさまざまに干渉してくる中国、韓国、北朝鮮に対して的確な対応をしてこなかったことによる。その国賊的責任者たちは、『なぜ中韓になめられるのか』によれば次のとおりである。

野中広務――媚中派のボス。

鈴木宗男――野中広務の威を借りて外務省に介入、「日中緑化推進議員連盟」なるいかがわしい議連をつくって会長におさまり、100億円の拠出を初め毎年莫大な資金を政府から引き出しながら、植林のためか自分たちの資金調達のためか不明瞭な運営を続けた。この議員連盟には江藤隆美、亀井静香、谷洋一、松岡利勝など錚々たるワルが役員として名を連ねていた。

額賀福志郎――中国との間に独特のパイプを持ち、鈴木宗男と組んで、ODAを利用。

宮沢喜一――官房長官の当時、教科書問題が起こるや「教科書検定にあたっては近隣諸国に配慮する」と謝罪し、独立国家にあるまじき「近隣諸国条項」をつくった。

池田大作――中華圏の一員という意識を持ち、中国の家臣であるかのような言動を吐いて、韓国を「兄の国」と呼ぶ。

三木武夫――首相当時、靖国神社に参拝しながら「私的参拝」と言訳けして問題の発端をつくった。

中曽根康弘――首相になった昭和60年、8月15日を期して靖国神社に公式参拝したまでは良かったが、中国が強く反発したため、あわてて1回だけで中止した。そのうえ最近になって、小泉首相の参拝に対し「参拝をやめるのも一つの立派な決断だ」と、つまらぬ圧力をかけている。

河野洋平――従軍慰安婦問題で軍の関与があったという、事実に反する見解を発表。衆院議長になってからも首相経験者5人を集め「靖国参拝はするな」との意見をとりまとめ、小泉首相に申し入れた。申し入れの内容も問題だが、立法府の長が行政府の長に下知することがとんでもない筋違いであることにも気がつかない無知をさらけ出している。こんな輩を、いつまで議長にしておくのか。

加藤紘一――2003年北京に行って小泉参拝を批判するなど、中国政府の代弁者として活動中。

橋本龍太郎――1996年首相になったが、政権発足の当初「歴史認識については村山談話を基本」とし、国益無視、私益優先の外交を展開した。おまけに、あろうことか中国公安関係の女性とねんごろになり、ケツのケバから国家機密まで抜かれ、不倫もみ消しのためにODAを不正支出した疑惑もある。

竹下登――首相としてODAを始めた。中国に対しては毎年1,000〜2,000億円を供与、空港、地下鉄、道路、ビルなどの建設資金を出しつづける基礎をつくり、その金額は中国に与えただけで3兆3,000億円に上る。

外務官僚(チャイナ・スクール)――「日本は叩けば謝る。金も出す」という誤ったシグナルを送り続け、日本の外交を軟弱きわまりないものにした。

朝日新聞――従軍慰安婦や南京虐殺など、デッチ上げのでたらめ報道を繰り返す。ある記者は女房が韓国人で、その親が慰安婦の補償を求めて裁判を起こしている。その判決を有利に導くために新聞紙面を利用した疑いがある。何事によらず、朝日新聞を読んでいると「人民日報」を読んでいるような錯覚を覚える。

 こうした国賊的な連中に率いられる日本だが、サミュエル・ハンチントン教授は『文明の衝突』の中で、日本を世界8大文明のひとつに上げている。これまでの日本は、中国によって東夷(東の野蛮国)と位置づけられ、日本人みずからも多くの学者が中華文明圏の下流にあると説いてきた。

 しかし事実は、遣隋使や遣唐使の時代はともかく、使節派遣の中止から1,200年の間に独自の日本文化が成熟し、日本文明が発展してきたのである。その光輝ある「孤高」を自らおとしめて「孤立」とみなし、このままでは世界中から相手にされなくなり、先行きしぼんでゆくような悲観論におちいる日本人も少なくないのは、上記の政治、官界、マスコミの言動が影響したからである。

 日本人としては聖徳太子や菅原道真にならい、みずからの歴史に照らして、元寇への備えも忘れず、近隣の物乞いや泥棒連中に対しては毅然たる態度で接し、できるだけ関係をもたぬようにしてゆく必要があろう。

(小言航兵衛、2005.11.10)

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