<小言航兵衛>

原子力村の痴的水準

 先日のNHKテレビ「世界から見た福島原発事故」という番組の冒頭で、スイス原子力委員会の元委員長が「地震や津波は想定できたはず。それをしていなかったとは憤りすら感ずる」と語っていた。まことにその通りで、スイス人に叱られる前に日本人がもっと怒らなくてはならない。

 事故発生の当時、原子力村の連中は電力会社の独占体制の上にアグラをかき、地元住民に金をばらまきながら安閑たる夢をむさぼっていた。まさか津波のために補助電源を含む全ての電源が喪失するとは思ってもいなかった。そのため、いざ電源が落ちたあとは狼狽するばかりで何の対策もうてず、ついに原子炉建屋の爆発と炉心のメルトダウンをもたらした。あとは地の神、海の神、火の神に祈ることしかできず、まるで原始時代に戻ったかのようなありさまが、この1年間つづいたのである。火の神の怒りはそれでも収まらず、全国54基の原子炉すべてを止めざるを得ない事態へと追いこまれた。

 今の日本人は、どうやら知能レベルが著しく落ちているのではないか。とりわけ40〜50歳代の社会を引っぱってゆくべき世代が、すっかりふやけてしまった。技術的にも行政的にも政治的にも呆けたような連中ばかりで、その背景にあるのは半世紀以上にわたって学問や規律や倫理を軽視してきた教育制度である。今の民主党で大きな顔をしている組合出身の幹部らが推進してきた愚民教育の立派な成果といってよいであろう。

 原発再開のために、電力会社も政府も原発がいかに安全であるかを言い立てる。やれ堤防を高くしました、やれ非常用電源の数を増やしました、ベントの装置を改善しましたなどというが、そんな機械的な対策だけで原発が安全になり再開ができると思うところに、この連中の馬鹿さ加減が見えている。

 なるほど原発の安全性は、いくらか良くなったかもしれない。けれども問題は、それを扱う人間の方である。たとえば航空機の安全を見ても、機械的な安全性は科学技術の進歩とともに向上してきた。しかし、それだけで航空事故がなくなるわけではない。

 問題は、その航空機を飛ばす個々人の安全意識、航空会社の安全文化、航空行政の安全施策である。それらが充分でなければ、航空機そのものがいかに安全であろうと、事故をなくすことはできない。現に同じ飛行機を飛ばしていながら、駄目な会社や駄目な国はいっこうに事故が減らないではないか。

 同じように原発の運用にたずさわる人びとの安全意識、電力会社の安全文化、政府の安全施策が今のような状態では、いかに原子力装置そのものの機械的な安全性が高まろうと、原発の安全など保てるはずがない。

 この1年間のあいだに暴露されたのは、いわゆる原子力村の安全神話を信ずる低劣な痴能レベルであった。このままでは第2、第3の原発事故を避けることはできない。ということは電力が如何に不足しようと、そのために日本経済が行き詰まろうと、原発を動かすわけにはゆかないのだ。

 原子力という神の火を、人間の手で燃やしつづけようと思うならば、よほど優れた学問と技術と経営と行政と政治が必要なはずで、その任に耐え得るところまで日本人の知能を高めるには、先ず教育制度そのものから変えてゆかねばなるまい。それには、この半世紀の間におこなわれてきた愚民教育――せっかく優秀な民族を怠惰な愚民に仕立て上げてきた戦後教育を改める必要があり、その成果が出るまでには少なくとも半世紀はかかるであろう。

 繰り返しになるが、問題は原子力施設そのものの安全性ではない。それを動かす人間が問題なのである。政治家も官僚も学者も、電力会社の経営者も技術者も、今の低劣な痴愚どもに恐ろしい神の火をさわらせるわけにはゆかない。

 彼らの知的レベルが回復するまでは、やんぬるかな、原発再開は半世紀でも1世紀でも待たねばなるまい。

(小言航兵衛、2012.5.8)

【関連頁】

   <小言航兵衛>危機管理が危機だった(2012.3.27)


愚民教育の成果

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