<小言航兵衛>

跳べないノミ

 この本は、最初に尾崎一雄の「蚤の曲芸」の話が出てくる。ノミは体の何百倍もの距離を跳ぶことができるが、これに曲芸を仕込むときは小さな丸いガラス玉の中に入れる。すると、いくら頑張ってもガラスの壁にぶつかって、それ以上跳ぶことができないので、ついに跳ぶのをあきらめる。そうなると、ガラス玉から出しても跳ぼうとしない。

 このノミにように、戦後の日本も小さなガラス玉に入れられ、跳ぶことを諦め、かつ忘れてしまった。それがアメリカの占領政策「精神的武装解除」だったというのが、本書『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』(高橋史朗、致知出版社、2014年1月30日刊)の説くところである。

 具体的には「ウォー・ギルト・インフォーメイション・プログラム」――つまり「日本人に戦争犯罪の意識を刷りこむ情報宣伝計画」であった。たとえば朝日新聞――終戦時には「宮城を拝しただ涙……大君(おおきみ)のまします宮居(みやい)のほとり、濠端(ほりばた)に額(ぬか)づき、私は玉砂利を涙に濡らした……拳(こぶし)を握って『天皇陛下……』と叫び、『おゆるし……』とまでいって、その後の言葉を続けることが出来なかった……(記者謹記)」と書いている。ところが1ヵ月ほどたって、占領軍から発行停止処分を受けたとたんに一転し、占領軍の意を体した論調に変わる。

 以来70年ほどたった今も、集団的自衛権反対の主張をやめようとしない。これは跳ぶのを忘れたノミのようなもので、自衛権のない国家など、アメリカが護ってくれなければたちまち侵略されてしまうだろう。それとも朝日の社員たちは無防備のまま、みんなで手をつなぎ、敵の上陸してくる海岸線に人垣でもつくって、それで国を守るつもりか。

 朝日の紙面が示すように、アメリカ「占領政策の究極目的は『非軍事化』」である。すなわち終戦時の武装解除を長期的に維持することであり、そのためには日本人の頭の中を洗い直し、「精神的武装解除」をすることであった。1950年代後半、中国共産党による「洗脳」という言葉が聞こえてきて、恐ろしいとかけしからんなどといわれたが、日本はその10年も前にGHQによって洗脳されていたのだ。

 そのひとつが教育制度の変更で、GHQは日本占領の年、昭和20年末までに4つの指令を出した。その中に「修身、日本歴史及び地理の停止」が含まれる。修身は、身を修め、道徳を重んじ、公徳心を養う。そこから親や祖先を敬い、国を愛する気持ちも生まれてくるが、「そのこと自体を危険視して……素朴な愛国心までも軍国主義につながり」国歌を歌うことすら戦争を呼び起こす一種の犯罪であるという考え方にまで落ちこんでしまった。

 さらに占領軍は「日本人に犯罪意識を刷り込むために共産主義者や社会主義者を利用し……『内部からの自己崩壊』を『教育の民主化』の名の下に」推進した。その結果は日教組が力を得て、今でも多くの学校で卒業式などの式典に際して国家を歌うか歌わないか、歌うときは起立するかしないかといった愚劣な情けない論争が続いている。

 のみならず今日なお教科書論争が絶えず、中国や韓国の検定まで受けるようになった。子供の教科書に他国の検定を受けるような国が、ほかにあるだろうか。これこそは土下座外交や弱腰外交の結果であり、南京虐殺を信じる日本人の存在も珍しくない。

 だが、日本人の「精神的武装解除」が進められる中で、それはおかしいとする本もアメリカで出版された。そのひとつが『アメリカの鏡・日本』(ヘレン・ミアーズ、1948年刊)で、「パール・ハーバーはアメリカが日本に仕掛けた経済戦争への反撃だった」と書き、日本軍の攻撃は「晴天の霹靂(へきれき)ではなく、然るべき原因があって起きたのだ」と明記して「日本人が歴史的、伝統的に軍国主義者・侵略主義者であった」というのは誤っていると批判している。

 さらに「フィリピンで戦争犯罪人として裁かれた山下奉文将軍の裁判とアメリカの原爆投下を比較して」「山下将軍の罪は、なぜ広島・長崎に原子爆弾の投下を命じたものの罪より重いのか」「絶体絶命の状態の下で戦っているわけでもない強大国が……1秒で12万人の非戦闘員を殺傷出来る新型兵器を行使する方がはるかに恐ろしいことではないのか」と書く。

 これに対し、当時のトルーマン大統領は公式文書の中で「日本人が理解する唯一の言葉は……原爆投下することのように思います。獣と接するときは、それを獣として扱わねばなりません」と語っている。つまり何ら恥じることなく、本心から「日本人を獣」とみなし殺戮したのだ。この男こそは大統領の毛皮をかぶった獣だったにちがいない。

 とすれば、広島の原爆慰霊碑に刻まれた「過ちは二度と繰り返しません」という文字は誰の言葉なのか。トルーマンの署名があればそれでよし。それがないとすれば、あの意味不明な文言がいまだに残っているのは理解に苦しむ。これもノミと化した日本人が戦後アメリカのたぶらかしから目が覚めない実例のひとつであろう。

 なおミアーズの本は1949年、日本で翻訳出版する動きがあったが、GHQから「不許可」となった。しかし今では角川書店から『抄訳版アメリカの鏡・日本』(伊藤延司訳、角川oneテーマ21、平成17年6月10日初版発行)が紙版と電子版で出ている。

 ところで、このようなアメリカの日本占領の野望は、戦後始まったものではなく、100年前から進められてきた。そう説くのは『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』(加瀬英明・ヘンリー・S・ストークス、祥伝社新書、2012年8月10日刊) である。

 ストークスの著書は前にも本頁「『南京事件』の虚妄」で取り上げたが、このイギリス人ジャーナリストによれば、日米戦争の100年前、4隻の黒船に乗って浦賀水道におしかけてきたペリー艦隊は、実は海賊集団であった。

 ペリーの黒い船団は、最新の大砲を誇示しながら江戸湾に碇をおろし、強引かつ違法に居すわった。しかし、このときペリーが「日本を対等に扱い……日本に対して正しく振る舞っていれば、日本は現在のようなアメリカの保護領ではなく、アジアで完全に独立した大国となれたはずだった」

 逆にペリーの粗暴かつ傲慢な振る舞いが日本の「誇り高い伝統を深く傷つけ」た。当時の江戸はペリーの考えたような未開の蛮地ではなく「100万人強の市民が、喜びに満ちた生活を営んでいた。地球上最大の首都だった江戸は、絵画でも舞台でも、きわめて高い芸術性を有していた。……街は文化財にあふれていた。……犯罪は驚くほど少なく、治安がきわめてよかった」

 江戸は「世界一の文化都市だった」。たとえば「本の需要は、膨大だった。ベストセラーが何冊も出て、10万部を超えることも珍しくなかった」

 治安の良さについても「今の東京は4万6000人の警察官によって守られている。江戸では70万人の町人に対して、町方同心(武士)と呼ばれる警察官と、岡っ引き(町人)を含めて、わずか60人しかいなかった。岡っ引きの下で情報を集める下っ引きを加えても300人だった」

 江戸時代の教育システムも「素晴らしいものだった。寺子屋だ。日本中に設立され、小学校として機能した」「日本が……明治初期すみやかに離陸できたのは、庶民の教育水準がどの国よりも高かったからだ。アジアの他の国々が欧米と比肩するには100年以上かかった」。その素晴らしい教育システムもGHQによってくつがえされ、その後を継いだ日教組によって、今のような低水準にまでおとしめられた。

 ペリー来寇(らいこう)の当時、日本はアメリカのみならず、多くの白人諸国からねらわれていた。アヘン戦争によって中国を裁断しつつあったイギリスや、インドシナの大部分を獲得したフランス、フィリピンに居すわるスペイン、出遅れたためにハングリーだったドイツ、サハリンの一部を略取したロシアなど、血に飢えた獣たちが日本をめぐって争奪戦を演じていたのである。

 それが明治維新以降、一時的にやんだかに思われたが、白人諸国の間では消えることのない野望として残っていた。それを排除するため1919年、日本は国際連盟に「人種差別撤廃」を提案、それを審議する委員会で、アメリカ、イギリス、ポーランド、ブラジル、ルーマニアの5ヵ国が反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、ポルトガル、チェコスロバキアなど11ヵ国の賛成を得て、提案は成立したかにみえた。

 ところが、議長を務めたウィルソン米大統領が「全会一致でないため提案は不成立」として、強引に否決したのである。その後20年余り、白人諸国のアジア植民地政策はますます進み、やがて日本を取り巻くABCD包囲網となって、日本への石油、金属、食糧など資源輸出が制限または禁止されるようになった。

 その結果ペリーによって埋めこまれた「火種が一世紀近くのちに、劫火(ごうか)となって燃えあがった」。日本による真珠湾と、イギリス領だったマレー半島およびシンガポールへの攻撃である。

 それから3年半、日本だけが敗れはしたが、以前から植民地化されてきたインドネシア、フィリピン、インド、ビルマ、マレーシアその他のアジア諸国が独立した。白人国にとっては想定外のことである。

 想定されていたのは日本本土への上陸侵攻作戦で、1945年11月1日「オリンピック作戦」によって、宮崎、鹿児島、有明湾の海岸に66隻の空母を含む3,000隻の海兵隊や陸軍が殺到する計画だった。これで九州を制圧したのち、翌46年3月1日には「コロネット作戦」によって九州侵攻の2倍以上の兵力が相模湾に上陸、関東平野を占拠する計画になっていた。

 これらの作戦は、それ以前に戦争が終わったので実行されなかったが、その少し前の原爆作戦は獣(けだもの)大統領トルーマンによって実行されてしまった。

 さらに日本占領後のマッカーサーによる「精神的武装解除」作戦は、今なお衰えることなく、日本人の精神をむしばみ続けている。安倍政権の進める集団的自衛権の実現にも根強い反対があり、こちらが無防備であれば誰からも侵犯されることはないと信ずる平和ボケの現状はいっこうに変わろうとしない。

 それは麻薬中毒やアルツハイマーと同じく、人の死ぬまで、国の亡びるまで治らないかの如くに思われる。果たして日本は立ち直ることができるのか。

(小言航兵衛、2014.7.30)


2013年秋、米ヴァージニア州で通りかかったマッカーサー記念館

      

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