ルフトハンザ航空史 第2部戦後篇

事業の再開と新たな発展

                

 

 

 

 ルフトハンザ航空の歴史について、戦後篇に入る前に、もう一度戦前の同社の特徴を要約しておきたい。一と言でいうならば、ルフトハンザは如何にもドイツらしいすぐれた科学技術から生まれた企業であった。

 そもそも世界で初めて航空運送事業に乗り出したのがドイツである。使用機材は飛行船だが、これも飛行船という技術の成果があってこそ可能だったわけで、最後は大西洋をわたる長距離国際線に発展し、客船の航海日数を短縮して人気を集めた。

 ルフトハンザは、その飛行船事業とも関係を持ちながら、飛行機による旅客輸送に乗り出すや、国内線から欧州圏内の国際線はもとより、たちまちにして長距離国際線へと事業を拡大していった。すべてはドイツ製の航空機を使用したもので、単発複座の小型機から4席、5席、6席と発展し、9〜10席の3発機や10席の飛行艇を実現、40人乗りの近代的な旅客機や大西洋横断も可能な長距離機を飛ばした。

 これらの機材を活用して、ルフトハンザは西ヨーロッパからモスクワやレニングラードへ飛び、南大西洋を渡って南米線を開設、ほぼ同時にユーラシア大陸を越えて中国にまで飛ぶようになった。最後はベルリンからニューヨークまで無着陸飛行の試みに成功し、これを定期航空路にする計画だったが、戦争のために実現しなかった。

 その一方で、ルフトハンザは発足当初から航空事業の経済性について体系的な研究をすすめ、いかにすれば商用航空事業が成立するかを追求してきた。その結果のひとつが夜間飛行の開始である。これで航空機の稼働率が上がり、事業としての効率が良くなった。さらに気象条件の悪いときでも安全に飛べるよう、計器飛行や航空管制を科学的、技術的に研究し、実用化したのもルフトハンザであった。

 大西洋を渡る長距離国際線の運航も、単に航空機の飛行性能の向上に待つのではなく、航続距離が足りないときはカタパルトを装備した補給船を海上に浮かべ、燃料補給をすると同時にカタパルトで機体を打ち出し、少しでも航続距離を伸ばして搭載量を増やすような工夫をした。

 ここまでの成果は、ドイツ特有の頑固な人間性と頑健な機材特性が相まった頑張りによるものといえるかもしれない。第2次世界大戦のはじまった頃には、世界中の空を鶴のマークが飛び交う準備がととのっていたのである。  

ルフトハンザの事業再開

 ルフトハンザ航空の頑張りは戦争によって挫折した。戦争が終わるとルフトハンザの職員はすぐにも会社を再建し、航空事業を再開するつもりであった。けれども連合軍は航空の再開を認めない。このあたりの事情は日本の戦後と同様である。

 ドイツの航空再建計画が具体化したのは1951年のことであった。この年5月29日、旧ルフトハンザの運航部長、ハンス・ボンゲルスを中心とする「ボンゲルス委員会」の設置が連合国によって認められたのである。

 ボンゲルス委員会は使用機材の調査、乗員の採用と訓練、施設の建造、路線の設定など、航空事業の再開に向かって具体的な準備を進めた。その結果1953年1月6日ルフターク社が設立された。1月6日という日は戦前のルフト・ハンザ航空が設立された記念日でもあり、1954年8月6日ルフタークがルフトハンザと改称されたのは必然の成り行きといえよう。その株式はほとんど政府が保有し、一部をドイツ鉄道や州政府が持った。

 会社のロゴ・マークも旧ルフトハンザの鶴のマークを踏襲し、青と黄色のカラーを受け継いだが、精神的にはともかく、法規上は戦前のルフトハンザとは何のつながりもない会社である。

 新生ルフトハンザは使用機材について慎重に検討した結果、国内線にはコンベア340、長距離国際線にはロッキードL-1049Gスーパーコンステレーションを採用することになり、それぞれ4機を発注した。いずれもアメリカ製の航空機であることは言うまでもない。その1番機、コンベア340が本拠地のハンブルク空港に真新しい姿を見せたのは1954年11月27日のことである。

 定期便の運航開始は1955年4月1日。戦前のルフトハンザが最後の飛行をしてから丁度10年後のことである。2機のコンベア340がハンブルクからデュッセルドルフ、フランクフルト、ミュンヘンなどの各都市へ飛びはじめたが、この日、当時のパン・アメリカン航空は新聞広告を出して、ルフトハンザの登場を次のように歓迎した。

「ハロー、ルフトハンザ! “新しい旧友”の仲間入りを歓迎。かつての偉大な伝統は、必ずや将来に生かされよう。さあ、チョークを外したまえ!」――いま振り返って、ルフトハンザの将来はまさにパンナムのいう通りとなった。しかし、それを歓迎したパンナムが消えたのは歴史の皮肉というほかはあるまい。

 

 長距離国際線へ乗り出す

 新生ルフトハンザは早くも1か月半の後、5月15日にはマドリドへ、5月16日にはロンドンへ、5月17日にはパリへの国際線に乗り出した。

 また2か月後の1955年6月8日には、ハンブルクを飛び立ったスーパーコンステレーションがデュッセルドルフとシャノン(アイルランド)を経由して、翌日ニューヨークに到着した。このように、いち早く大西洋横断飛行が認められたのは、戦前フォッケウルフFw200コンドルでベルリンからニューヨークまでの試験飛行に成功していたドイツの実績が尊重されたためである。

 このときドイツからニューヨークまでの所要時間は約17時間だったが、スーパーコンステレーションは間もなく翼端に増加燃料タンクを取りつけ、フランクフルトやデュッセルドルフから直接ニューヨークへ飛ぶようになり、所要時間は13時間に短縮された。

 かえりみて、戦後の日本でも同じように航空活動が禁止された。今の日本航空が発足したのは1951年7月31日、運航がはじまったのは10月25日である。ドイツよりも早いように見えるが、当初は米ノースウェスト航空による委託運航である。使用機はマーチン202。これが自主運航になるのは1年後だが、パイロットは依然アメリカ人であった。

 そして初の国際線、東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線に日本航空のDC-6Bが飛びはじめたのは1954年2月2日。東京発第1便の有償客は5人、2月6日の第2便は1.5人という記録が残っている。アメリカに帰国する女性1人と、同伴の子供1人だったからで、その後も国際線の乗客はなかなか伸びず、「操縦士はアメリカ人なので安心して下さい」といった宣伝をしなければならないほどだった。

 ルフトハンザの運航はその1年ほど後にはじまったことになるが、北大西洋横断の長距離国際線は1956年イギリス北部を経由してモントリオールやシカゴへも飛ぶようになった。また同年9月12日スーパーコンステレーションは中東へも飛びはじめ、イスタンブール〜ベイルート〜バグダット〜テヘラン線が開設された。

 1960年8月には南米線も再開される。ハンブルク〜デュッセルドルフ(またはフランクフルト)〜パリ〜ダカール〜リオデジャネイロ〜サンパウロ〜ブエノスアイレス間をルフトハンザ機が飛ぶようになった。

 

コンベア340とコンステレーション

 戦後まもない頃、先勝国ではダグラスDC-3やマーチン202、404、さらにはコンベア240(40席)が旅客輸送に使われた。しかし10年ほど遅れて発足したルフトハンザ航空は幸か不幸か、こうした戦後初期の機材を使う必要がなく、最初からより近代的な航空機――上に述べたようなコンベア340(44席)やロッキード・スーパーコンステレーション(85席)を採用することができた。

 ルフトハンザが当初4機を発注したコンベア340は、やがて改良型のコンベア440メトロポリタン(52席)に進み、ルフトハンザは7機を発注した。

 もうひとつのコンステレーションはロッキード社が第2次大戦中、例のスカンク・ワークスで極秘のうちに開発した大型4発旅客機である。注文主はTWAのオーナー、ハワード・ヒューズ。初飛行は1943年1月9日であった。機内は与圧されて乗り心地が良く、速度性能はゼロ戦以上で550km/hを超える。

 この旅客機をTWAは1946年3月1日、ニューヨーク〜ロサンゼルス線に投入し、当時のダグラスDC-4を圧倒した。しかし翌1946年、ユナイテッド航空がDC-6を投入、51年には改良型のDC-6Bを就航させた。これに対抗して、TWAは52年モデル1049スーパーコンステレーションを投入する。すると53年にはDC-7が登場、55年には1049Gが実現して、ロッキード社とダグラス社のシーソーゲームが続いた。

 こうした両メーカーとエアラインの競争はヨーロッパでもおこなわれ、各国各エアラインがダグラスやロッキードの旅客機を思い思いに採用して競争した。ここで初めてルフトハンザが登場する。同社は当初DC-6Bが好ましいと考え、10機を発注しようとした。しかし何故か、ダグラス社との契約交渉が合意に至らず、スーパーコンステレーションの発注となったのである。

 ルフトハンザ向け最初の4機は1955年に引渡され、翌56年に4機が追加された。これらは1968年まで10年以上にわたって使われた。なお、コンステレーションの製造機数はスーパーを合わせて830機以上、DC-6とDC-7は合わせて800機余で、ほぼ互角の勝負であった。  

ターボプロップからジェットへ

 旅客機は、ピストン機の時代からタービン機の時代へ入る。その新しい波はアメリカではなくてイギリスにはじまった。1950年代なかばブリティッシュ・ヨーロッパ航空(BEA)がビッカース・バイカウント701ターボプロップ機を導入して、タービン機のすぐれた特性を実証し、1957年からはバイカウント802を就航させた。

 それに対抗するルフトハンザも負けてはいない。さらに長距離用のバイカウント814D(48席)を9機発注し、1958年ミュンヘン〜ロンドン線に就航させた。やがて59年にはミラノ、ストックホルム、アテネ、バルセロナへの路線にも使った。

 ターボプロップ時代を一瞬の間に経過したルフトハンザ航空は早くも1960年ジェット時代に入る。これより先、英国海外航空(BOAC)がコメット4、パンアメリカン航空がボーイング707を大西洋線に投入して、本格的なジェット時代の幕を上げたのは、わずか1年半前の1958年10月であった。

 ルフトハンザのボーイング707-430(150席)はまず5機が発注され、1960年春フランクフルト〜ニューヨーク線に就航、続いてサンフランシスコとシカゴへも飛ぶようになった。そして1961年1月23日には東京への乗り入れもはじまる。それはルフトハンザにとって、1938年Fw200コンドル長距離機が東京への試験飛行をして以来の夢の実現であった。

 ルフトハンザはその後、ボーイング720B(125席)を導入、1961年から乗客数の少ない南米線や中東線に投入した。1964年からは欧州圏内の路線にボーイング727-30ヨーロッパジェットや727-230(160席)を投入、1968年からは737シティジェット(90席)の運航を開始した。

 1970年4月からはボーイング747の運航がはじまった。パンナムのジャンボ就航からわずか3か月後のことで、運航区間はフランクフルト〜ニューヨーク線である。1974年には南米線にマクドネル・ダグラスDC-10-30(270席)を投入した。

 1976年、ルフトハンザは欧州製のエアバスA300B2を採用した。戦前はドイツ製の航空機だけを使用し、戦後はアメリカ製の航空機を使ってきたルフトハンザが、初めてヨーロッパ製の航空機を飛ばすことになったのである。エアバス機はその後も77年にA300B4、83年にA310、87年にA300-600、1990年にはA320、92年には4発型A340と、ルフトハンザの中で大きな地位を占めていった。 

 

いっそうの発展をめざす

 1989年、今の会長兼CEO、ユルゲン・ウェバー氏が取締役会に名をつらねるようになった。その年、北大西洋線にエアバスA310-300双発機が就航した。フランクフルト〜モントリオール〜フィラデルフィア線である。同時にルフトハンザの年間乗客数が2,000万人に達した。

 1990年10月、ルフトハンザにベルリンへの飛行が認められた。ベルリンの壁が崩壊し、冷戦構造が終わったためである。それはドイツにとって戦後45年、初めて第2次大戦が終わったことを意味し、ルフトハンザにとっても戦後の不自由な体制がようやく終わった日であった。

 しかし折から湾岸戦争がはじまり、世界的な不況の波が押し寄せ、ルフトハンザは旅客や貨物の輸送需要が減退し、競争が激化して、多額の赤字に落ちこんだ。従業員は解雇され、機体は砂漠の中で塩漬けされて、ついには会社の存続も危うくなった。

 この危機から逃れるには、企業としてのリストラと同時に他社との業務提携しかあり得ない。というので、1993年ユナイテッド航空との間に協力関係の調印がなされた。これこそはルフトハンザが最も重視するエアライン・アライアンス――今の「スターアライアンス」のはじまりであった。

 ルフトハンザは、やがてスカンジナビア航空(SAS)、タイ航空、エアカナダとの間にも提携関係を結び、1997年にはヴァリグ航空、99年にはエアニュージランド、アンセット航空、全日空がアライアンスに参加、さらにオーストリア航空、シンガポール航空が加盟した。最近は今年6月26日、ブリティッシュ・ミッドランド航空とメヒカーナ航空の参加が発表されている。

 これでスター・アライアンス加盟の航空会社は13社で、エアライン業界最強の提携関係が成立したことになる。

 かくてルフトハンザ航空は1999年、関連企業も含めて250億マルク、日本円にして1兆3,000億円の売上げを計上、およそ20億マルク(約1,000億円)の利益を上げた。戦後を脱し、不況を克服したルフトハンザ航空は、今いっそうの飛躍と発展をめざしつつある。

(西川渉、『エアワールド』誌、2000年10月掲載)

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