形骸だけの日本の安全

  

 『墜落の背景』(山本善明著、講談社、1999年11月4日刊)は、日本航空の事故処理にたずさわってきた著者による上下2巻の大部の本である。長年の実体験にもとづくだけに、きわめて具体的で面白い。余り具体的にすぎて、ここに書かれた当事者の中には、日本航空、航空局、事故調査委員会、航空医学研究センターなど、不快に思う人も少なくないであろう。

 しかし航空事故をなくすのは勿論、行政当局の考え方や姿勢を改めさせるには、このくらいの主張はあってもいいはず。もしそれが不当だというのであれば、反論を書けばいいのである。

 反論ではなくて、本書に書かれているように、航空身体検査を受けにきたパイロットを日本航空だけ次々と落としていくといった悪質な権力行使などは言語道断。この報復によって、昨日まで飛んでいた多数の機長が飛べなくなり、正常な身体にメスを入れて大手術を受けさせられる実態も暴露されている。

 行政が怨恨と恣意によっておこなわれるほど恐ろしいものはない。私も昔「役所にだって感情がある」と脅かされたことがある。

 さて、この本の中で最も大きな主題となっているのは、1982年2月の羽田沖の事故である。乗客・乗員174人をのせて福岡から飛来したDC-8が、いわゆる逆噴射によって早朝の海に突っ込み、乗客24人が死亡した。原因は機長の心身症というあいまいな言葉でごまかされてしまったが、実は本書に詳しく書かれているように妄想型精神分裂病であった。

 しかるに事故調査委員会の報告書には「推定原因は、着陸進入中の低高度において、その必要がないのにもかかわらず、機長が操縦輪を押し込み、かつ全エンジンのパワー・レバーをフォワード・アイドル位置まで引き戻し、その後さらに第3エンジンのリバース・レバーをリバース・アイドル位置まで引いたことによるものと認められる。なお、機長がかかる操作を行うに至った理由は、その精神的変調によるもの……」とあるのみ。

 精神的変調が精神病のこととは知らざりき。私などは急にむしゃくしゃしたり腹が立ったり、しょっちゅう精神的変調をきたしているが、やっぱり気が狂っているのだろうか。

 本書によれば、日本の航空事故調査委員会は事故の再発防止や安全性の向上よりも、警察による刑事捜査の主導のもと、その証拠集めをしているようなものである。

 その限界は1997年に起こった日本航空MD-11の乱気流事故でも見られる。この事故は単に乱気流によって機体が揺れただけではない。事故の当時は重傷4人、軽傷8人と報道されただけだが、実は頭を強く打った客室乗務員の1人は意識不明のまま1年半ののちに死亡した。

 そうした事故の原因について、事故調はパイロット・エラーの線で結論を出そうとしたらしい。現に調査の途中で「自動操縦装置が切れた後、操縦士が反復して操舵を行った結果、いわゆるPIO(Pilot Induced Oscillation)に陥った……」として、再発防止の建議をしている。それを受けて航空局は操縦士の訓練、教育などの強化を求める通達を出していた。

 ところが、機長の方はPIOなんぞは百も承知で、反復操舵もしていないという。おまけに今年に入って、米国側でNTSB(運輸安全委員会)がFAAに対し、MD-11の自動操縦装置は設計変更の必要があるという勧告を出した。もともと機材の方がおかしかったということになったのである。

 機械と人間の問題は、名古屋空港の中華航空エアバス機の事故にも見られるように、今や航空界の大きな課題となっている。本書は「操縦の主権がパイロットにあった在来機の場合は、操縦操作のミスをパイロット・エラーとして片づけることが可能かもしれない。しかし、現在のハイテク機の場合、機械と人間の接点で起こる人間の側の不具合は……機械の側の不具合として考えるべきではないか」

「ところが事故調は初期の段階から、MD-11の機材、飛行特性については問題がないとの前提を置いて事故調査を進め、その当然の帰結としてパイロットの不適切な操作に起因する事故」という結論を出そうとした。それがNTSBの勧告でできなくなり、いまだに事故報告書が書けないというのである。なぜなら事故調自体ハイテク時代についていけないばかりでなく、欠陥機に耐空証明を出した航空局にも類が及ぶかららしい。

 本書にはもうひとつ、運輸省は「行政許認可権、行政監督・指導権を持って日常の運航の安全管理をおこなう立場にありながら、航空事故が発生すると緊急の特別立ち入り検査を実施して、業務改善勧告を神の声の如く全く他人事のように行う……マスコミも世間一般も責任のすべてを航空会社に押しつけ、当事者であるはずの運輸省を裁判官として容認し、運輸省と一緒になって航空会社を責め立てる」と書かれている。

 私も著者の見方に賛成である。運輸省の中でタダの部屋を与えられてとぐろを巻いている記者クラブの連中が官僚のやり口を批判したり、その組織に楯つくことができないのは当然のこと。

 官僚の方も運輸省ばかりでなく、最近の東海村における「臨界事故」のときの科学技術庁の対応ぶりにも同じような姿勢が見られたし、神奈川県警の一連の不祥事も同じこと。犯人が警察でありながら、同じ警察が調べたり裁いたりするというのだから筋が通らない。

 何々組の子分が麻薬の売買をしていて、それが発覚しそうになれば親分はかくまうであろう。それを警察が見つければ、子分も親分もすぐに逮捕するのではないか。神奈川県警の場合は、子分は逮捕されたようだが、それをかくまった親分や兄貴分の方は逮捕どころか、今度は警察がかくまってしまった。現に「証拠隠滅のおそれがないから」などという弁明を警察自体がやっているわけだが、これまた組織ぐるみの犯罪行為ではないのか。今や日本は、官僚たちのやりたい放題で滅茶苦茶にされてしまった。

 運輸省とマスコミが組んで航空会社を責め立てた結果はどうなるか。航空会社としては世間を納得させるために「目に見える安全対策を実施しなければならない」と著者はいう。たとえば安全管理と銘打った組織の新設、人員の増強、規定類の改訂、安全教育の実施など、「安全対策を形式的に実施しさえすれば、世間はそれで納得し、安全体制が質的に向上したかどうかという肝心な点については興味を示さない」

 全くその通りで、事故が起こると安全監査室や運航管理部など、名前だけを借りてきたようなもっともらしい組織を新設し、優秀なパイロットを現場から引き抜いてそこに当てたりする。そのため残された現場は二番手のパイロットに負担がかかり、却って危険性が増したりするのは日本航空ばかりではない。

 では優秀なパイロットを集めるにはどうすればいいのか。著者は「訓練時間を最小にして、それでパスした者だけをパイロットにすればいい」という運航本部長の言葉を引用している。つまり短期間で操縦技能が仕上がってゆく人は生来パイロットとしての資質がそなわっているのである。

 それに対し、一定の訓練コースをマスターするのに時間がかかるような「素質のない者は、時間をかけて反復練習を積めば飛べるようにはなるが、いざというとき」の咄嗟の判断と処理ができない。そういう人がやっとのことでパイロットになったりすると却って危険を招く。

 昔からパイロットの資質を見分けるにはどうすればいいかという問題があって、日本海軍は顔相で決めたなどという話を聞いたことがある。また10年ほど前であったか、日本航空がパイロットの卵を採用するときは、全くの素人をいきなり軽飛行機にのせて操縦桿を握らせた。

 そういう採用試験が今もおこなわれているかどうかは知らぬが、素質があれば教えられなくても本能的、直感的に取り敢えず安定した操作だけはできるのであろう。そこで慌てたり、怖がったりすればパイロットの資質がないわけで、むろん採用するわけにはいかない。

 今の日本は、政治家も官僚も、警察も原子力も、素質のないパイロットが操縦しているようなもの。おまけに分裂病に冒された気配も見えるから、このままでは、いつ逆噴射で墜落してもおかしくはないであろう。

(西川渉、99.11.17)

「安全篇」へ) 表紙へ戻る