なぜミスを犯すのか

――医療事故(2)――

 

 医療事故の再発防止については、先にも本頁に書いたばかりだが、では何故これほど頻繁に事故が起こるのか。その問題については『誤診列島――ニッポンの医師はなぜミスを犯すのか』(中野次郎著、ホーム社、2000年3月刊)がよく解明しているように思われる。

 この本は「長らく(40年余り)アメリカで大学の医学部教授として、あるいは開業医として、アメリカ医療の最前線に携わって」きた著者が、アメリカと日本を比較しながら、「ニッポンの医療は抜本的な改革をしないかぎりダメだろう」と、日本の医療システムの問題点を指摘したもである。これを読んで、私は日本の医療体制の低劣なるを知り、裏切られたような気になって、しばし呆然たらざるを得なかった。

 

 まず、著者の友人に「事件」が起こる。肝炎で入院していた奥さんが担当医からあと1週間で退院できると言われた。ところが友人が見舞いを終え、夜7時に「じゃ明日、また来るからな」と病院を出て、途中で食事をして家に戻ったところ、9時半過ぎ電話で奥さんの危篤を知らされた。

 あわてて10時半に病院へ駆けつけたときは、奥さんはすでに亡くなっていた。しかも、そのとき担当医は遊びに出かけていて、見知らぬ当直医と若い看護婦がベッドのわきでオロオロしていた。

 死因は急性心不全、心室細動といわれたが、それは結果であって原因ではない。もともと、この奥さんには心臓の既往症はなく、入院中の異常もなかった。実際はご主人の帰ったのち、違った注射を打ったか、点滴を間違えたか、担当医が当直医に出した指示が的確ではなかったか。さまざまな不祥事が考えられる。おそらくは点滴ミスであろう。

 けれども、すべては医局の密室の中で処理されてしまって、証拠はない。死亡した患者はもちろん、遺族にはまったく打つ手がなく、黙って泣き寝入りをするほかはないのである。

 こんなことが起こる原因は何か。その根本にあるのは、日本の医療システムであろう。日本のシステムは世界最高であると、つい最近まで私はそう思っていたが、これだけ頻繁に事故が起こるところをみると、どうやらそうではなかったらしい。その辺りを、本書によって見て行くと次のようなことになる。

 

 第1の問題点は医師の教育システムである。詳しいことは本書を読んでいただくとして、次のような目次の抜き書きを見るだけでも、察しがつくに違いない。

 君たちは医師になるな!
 明治初期からほとんど進歩していない
 高偏差値だけで医学部に来るな!
 日米の大学医学教育制度の比較
 ニッポンの医学生のアホさ加減
 患者さんの命を大事にしないニッポンの医学教育
 アメリカは筆記試験だけでは合格させない
 アメリカの医学教育は8年制
 臨床医学教育を大事にする
 ニッポンの医学部に欠けている教育
 医師は3年ごとに免許の再申請をしなければならない
 かわいそうなニッポンの患者さんたち

  私が驚いたのは、アメリカの医学部に入るには、先ず4年制の大学卒業生でなければならないということ。しかも卒業学部は文学部であっても構わないどころか、その方が望ましいくらいだということ。というのは医師を志すに際して「医の倫理」を考えるには、単に生物や化学の知識だけでは不充分で、哲学や文学の知識も必要だからである。

 そのうえ医学部を受験するには、卒業した大学の教授、さらには牧師と実際の医師からの、合わせて3通の推薦状がなけれならない。ということは、その学生が「本当に医師として適格かどうか、受験する前に外部の人にチェックされる」のである。

 本番の入学試験も、内容がむずかしいのは当然として、「なぜ医師を志したか」という論文が重視される。また口頭試問で文学、哲学、倫理、宗教、科学、芸術など、あらゆる角度から質問が発せられ「学生が医師となるための品性や決意を持っているかどうか」が鑑定される。

 こうして単なる知識や頭の良さだけではなく、全人格的に医師に適した学生が医学部に入る。入ったあとは、今度は日本のような6年間ではなく、8年間の教育を受ける。しかも、猛烈に勉強しなければついていけないような毎日を送ることになる。というのは2年生を終わった時点で、はやくも基礎医学の国家試験が課せられるからである。

 それに合格して3年生に進むと、次の2年間は徹底した臨床医学教育になる。学生は1人の患者さんを前にして、詳細な問診と検診をして、完璧とも思われるカルテを書き、自分の確信した臨床検査や治療法を臨床教官に提出する。教官はそれを検閲し、学生と討論する。1人の教官が担当する学生は2〜3人だから、「密接な人間関係の中で厳しい臨床教育が」おこなわれるのである。

 勉強は当然のことながら、医師になってからも続く。

  医師たちは国家試験に合格したのちも、3年ごとに医師免許を更新しなければならない。……なんだ運転免許と同じかと思われるかもしれませんが、医師免許の更新はそんな生やさしいものではありません。医学生時代に勉強した以上に勉強しなければ免許の更新はできないのです。

 その勉強とは総合病院での研修で、専門科目の臨床例を学ぶだけでなく、薬剤、放射線治療、臨床病理、生命倫理に至るまで最新の医学を学び直すのだ。おそらく日本にこうした免許の更新制度を持ち込むと、不適格の烙印を押される医師が続出するであろう。

 日本もこの免許更新制度を導入すべきではないかと著者はいう。といって「それは決して免許を取り上げるぞという脅しではなく、アメリカのように積極的に最先端の医学を末端にまで広めていくためです」

 それから、さらに……といった詳細は、本書を丸写しすることになるので、ここらでやめておくが、こうしたアメリカの教育システムに対する日本のシステムの欠陥も、本書には詳しく論じられている。

 医師の倫理観や教養に関連して、何年か前にアメリカで聞いた話だが、エア・メソッド社では救急パイロットの資格の一つに大学卒業者という条件が入っていた。理由を訊くと、医師との対話ができなければならないからという。両者が共同作業を進めて行くには、パイロットの方にも医師に近い教養や倫理観が求められるのであろう。単に操縦がうまいというだけでは、人命救助という仕事にはつけないのである。

 医療事故を起こす第2の原因は病院システムである。本書には以下の目次に見るようなアメリカの病院システムが詳しく描かれている。 

 アメリカでは院内医師と院外医師が治療にあたる
 笑い声が絶えないアメリカの病室
 挨拶しないニッポンの医師と看護婦
 インフォームド・コンセント
 大学教授より素晴らしい開業医がたくさんいる
 学閥などまったくないアメリカの病院
 インターン制度は十数年前から漸次廃止
 医師が病院長ではない
 アメリカの病院内の委員会

  アメリカでは医療過誤が起こり得ることを前提に病院システムができ上がっている。言い換えれば、アメリカの病院システムは医療過誤を防ぐように組み立てられているのだ。

 たとえば病院長という職務ひとつを取り上げても、著者は次のように書いている。

  アメリカで病院長になるには、長い病院経営の経験が必須条件です。病院経営を志す者は一般大学を卒業したのち、大学院経済学部の病院経営学を専攻し、修士号を取ったうえで、まず副院長に採用されます。そして副院長として数年の病院経営を経験した者が、病院長を探している病院に応募し、少なくとも10人以上の応募者の中から選ばれるのです。

  こうしてアメリカの病院は一般企業と同じように運営されている。しかるに日本では多忙な医師が病院長になる。もっと悪いことは病院経営など全く経験したことのない大学教授が病院長として天下りをしたりする。これでは院内の組織や人事の管理すらおぼつかなく、事故が起こるのは当然である。

 そのうえアメリカでは、病院の中に沢山の委員会を設けて、チェック機関としての機能をもたせている。たとえば次の通りである。

医師資格委員会

医療過誤を防ぐために、各専門医の資格について審議する

医療記録委員会

 

手術や検査の報告、カルテの管理、保管についてチェックし、いいかげんなカルテを書く医師は昇級停止や解任などの処罰を受ける。

薬事審議委員会

薬剤乱用の防止や新薬の選択を審議

院内感染防御委員会

院内感染の防止方法について、医師や看護婦を教育

組織委員会

手術や治療の内容について適切だったかどうかをチェックし、医療過誤の防止に努める。

  ほかにも院内法規委員会、医療の質保証委員会、生命倫理委員会、院内診療制度委員会、災害委員会などがあって、医療の安全性向上に努めている。「さらに、これらの委員会を持つ病院自体をまた政府機関がチェックし、何重にも監視機関があることによって、アメリカでは急速に医療過誤が少なくなった」

 それに対して日本の病院が、いかにも事故の起こりやすいかたちで運営されていることは、本書に具体的に指摘されている。それを航空人の立場から見るならば、航空機の事故はひとりパイロットの問題だけではない。パイロットのミスは周囲の関係者によって誘発されることが多く、最終的には経営トップの資質を初めとする会社の組織や運営システムの問題につながる。

 航空会社が乗客の命を預かるように、病院は患者の命を預かる――当然すぎるほど当然のことだが、そんな当然のことを、最近の医療事故を起こした病院は、すっかり忘れていたか、無視していたにちがいない。

 

 医療事故を起こす第3の原因は薬事システムであろう。日本の薬漬け医療を指摘する本書の目次は次の通りである。

 ニッポンの医師は臨床薬理を知らなさすぎる
 検査結果で治療するな! 患者さんを診て治療せよ!
 薬あるからとて薬を飲むべからず
 薬を渡すとき、ニッポンでは「酒は飲むな」と医師が言いますか?
 タバコを吸うと薬が効かない
 ニッポンの医師が薬を乱用させている!
 アメリカ認可、ニッポン無認可の主な薬剤
 製薬会社よ、臨床薬理医の養成に投資せよ
 アメリカで最も信頼されている職業は薬剤師
 世界で一番遅れているニッポンの処方箋
 病院は薬価の高い薬を出せば、それだけ儲かる
 薬に依存、浪費する患者と厚生省

  薬は、同じ効果があるならば安い方がいい。ところが日本の医師や病院は患者に高い薬を飲ませたがる。たとえば―― 

 抗不整脈剤のキニジン……日本の医師はほとんど、このキニジンを患者さんに飲ませない。なぜか。薬価が安いからです。言い換えれば、儲からないからと言ってもいいでしょう。

 ……最近、厚生省の薬価基準表に、そのキニジンが見当たらなくなったのはどうしてでしょうか。日本では、このように良薬が医療の場から消えていきます。

 ……病院は、患者さんが社会保険にしろ、国民保険にしろ、保険に入っていることをいいことに、高い薬価の薬を使い、それを国に請求している……薬価の9割は国がその病院に支払っている。

  あるいはまた、次のような例が指摘されている。

  厚生省が認可した複数の痴呆症(ボケ)の薬が、1兆円に達するほど10年間も投与されてきました。

 ところが昨年、再審査の結果、それらの薬がまったく無効であることが判明し、突然、厚生省はその薬の使用停止の省令を出したのです。10年間も使わせておいて今さら無効だなんて、いったい誰がこれらの薬を認可したのか。無責任な厚生省……官僚たちが一切追求されないのも不思議でなりません。

 ……ニッポンでは完璧な評価機構や制度が存在しないから、多くの医師たちは不適切な薬剤治療や薬漬け、検査漬けにより、国民の血税を平気で浪費しているのです。……この制度は悪徳医師たちの富を増やし、不正申告をする悪い病院に莫大なお金を注ぐ一方、正直誠実な医師に経済的な苦痛を与え、善良な病院を倒産させます。

 世界の文明国で、医療機関や医師の評価をせずに、言われた通りに医療費を払う国はニッポンだけかもしれません。

 

 このようなことから、世界で最も完備したはずの日本の健康保険制度は、いつしか財政危機におちいり、哀れにも新しい医療制度を実行に移すこともできず、たとえばヘリコプター救急も実行できないままでいる。

 そうかと思うと、日本は新薬の治験が世界一遅い。旧くて危険な薬を、儲かるからといっていつまでも使う。その結果、あのサリドマイド禍が発生し、薬害エイズ事件が起こった。

 そればかりでなく、薬漬け医療の結果、多くの薬害による医療過誤が起こる。なぜか。「臨床薬理が大学医学部、医科大学、病院に普及していないから」と著者は言う。「薬にはひとつひとつ意味がある。だから怖い」にもかかわらず、医師たちはそれを知らないまま平気で患者に対している。

 たとえば患者に「薬を飲むときは酒を飲んだり、タバコを吸ってはいけない」という注意を与える医師がどれくらいいるだろうか。薬の効果が半減するばかりでなく、逆に効きすぎて恐ろしいことになる。

 眠れないからといって酒を飲み、そのあとで睡眠剤を飲む人の危険度ははかり知れません。たとえ死に至らなくても、睡眠剤と酒を一緒に飲むと意識や記憶に障害の出ることが多い。医師は、睡眠剤を出すときは、そのことを徹底的に注意しなければならないのです。

 本書ではアメリカの実例として、「ハリウッドの女優が酩酊し、常用している睡眠剤を服用して呼吸中枢麻痺で死亡した」り、「精神錯乱になった女性がボーイフレンドをピストルで撃った例」が紹介されている。まさに日本でもつい先日、保険金目当てに酒と睡眠薬を一緒に飲ませた殺人事件が起こったばかりではないか。

 かくて、日本の医療システムは、病気を治し人命を救うどころか、とうとう殺人システムにまでなり果てたのである。

(西川渉、2000.5.21)

「新防災救急篇」へ (表紙へ戻る)