宮田豊昭文藻

 親しい友が不意にいなくなった。この寂しさを何にたとえていいのか、今の気持ちをどう整理していいのか、まだよく分からない。葬儀の場では弔辞を読んだものの、いま改めて追悼の文を書こうとして、とまどうばかりである。

 この人は68歳のきのうまで少年のような心を持ち、柔軟な発想と精緻な材料で独創的な理論を組み上げ、思うところを軽快な文体で読者の前に展開して見せた。このことは長年にわたって本誌に書きつづけた数々のエッセイを読んだ方には、よく分かっていただけると思う。今ここでは、私が月並みの言辞を弄するよりも、宮田さんみずから語って貰う方がいいだろう。『ヘリコプター物語』『操縦士たちのヘリコプター』『宮田豊昭の部屋』など、いくつかの著作からその一部を引用したい。

「ヘリコプターはしばしばトンボのようにいわれる。たぶん形が竹とんぼを連想させるからだろう。それでも異論はないのだが、できればヤンマといってもらいたい。ヤンマは平地や山間の気層の底を鋭く往来する。山は高きがゆえに貴くはないし、飛ぶ空は低くても好い。それよりも飛ぶ姿だ。陽を煌めかせ、威厳に満ちて直進する姿は、十分な存在感がある。ヘリコプターの創生期、ヘリコプターはヤンマのように飛び、操縦士たちは生気に満ちていた」

操縦を志して

 宮田さんが「本気になって飛行機乗りになろうと決心したのは中学二年の夏、昭和24年」のことだそうである。「高校では糸川英夫の『航空力学教程』がバイブルだった」。その夢を実現するために防衛大学校へ進み、航空工学を学び、飛行機の操縦を習って、のちに民間へ転じた。

 そして改めて、朝日ヘリコプターで操縦訓練を受ける。「どうしたわけかいま僕は、ジェットファイターではなく、200馬力のちっぽけなヘリコプターのパイロットになった。僕のライセンス番号は1007で、スウさんの番号は1008だったから、酔っぱらってくると『ゼロゼロセブンは殺しの番号、ゼロゼロパアはマヌケの番号』と、たちまち仕掛けていく。スウさんはやさしい人なので、ニコニコと軽く受け流す。スウさんは僕より五歳ほど年上である」

「操縦士が最初に闘わなければならないのは雲や風だ。いきなり容赦ない相手に遭遇し、かろうじて凌ぐ方法を見つけだすのは容易ではなかった。……年を経て、乗る機種がだんだん高級になってメカは複雑になるが、気が付けば相手はやはり雲や風、雪を吹く大自然である。たとえ数千馬力を駆り立てても、渦巻く風には抗し難い。吹雪に囲まれれば必死に生還の道を探し、複雑なメカがきちんと役割を果たしてくれることを祈る。人間や、人間が造った道具が儚いものだと思い知らされる。宇宙飛行士の多くが敬虔な宗教家になったと聞いてわかる。宇宙船もヘリコプターも圧倒的な自然に遭遇するのは同じことだ」

青春のベル47

「ヘリコプター世界はベル47によって作られた。ヘリコプターが産業として興き、事業として成立できたのと、ベル47を切り放して語ることはできない。ヘリコプターといえばそれはベル47であり、軽快で親しみやすいイメージを決定的に作った機種なのだ」

「ベル47がヘリコプターとして成功したのには、たしかな理由がある。複雑なメカニズムをたくみに簡略化し、それでいて必要な機能をちゃんと果たす構造になっていたからだ。どんなにヘリコプターが発達し、複雑高級な構造になっても、ベル47の基本がわかれば理解できないものはない」

「創業の時代のパイロットたちは、ベル47によってパイロットになり、青春を共にして育った。喜びも悲しみも苦楽も、小さなコクピットの中で努力があり、経験され、記憶されたのだ」

「僕もベル47でライセンスを取った。26歳のときだ。だからベル47の世話になったし、飛行時間の多くがベル47だった。リュウさんもサイさんもシンちゃんもトモちゃんも、イケちゃんも3馬鹿大将も、皆ベル47でパイロットになり、ベル47に育まれたのだ。彼らは今、スーパーピューマに乗っている。けれど、どの機種がいちばん良かったかと聞けば、口を揃えてベル47G2と答える。なぜなら、G2は青春の機種であるから」

マニュアルと緊急操作

 航空機のマニュアル類について、宮田さんは次のように言う。「マニュアルには性能とか要目とか、言うならば外から機体を眺める視点がなく、内側から機体を知るための書物である。したがって決まった用語と配列の無味乾燥な取扱説明書だが、メーカーの力量のバロメーターでもある。受け身で読むとちっとも嬉しくないが、その気になれば果てしなく想像力を掻き立てる」

「マニュアルは理論的な主張ではない。経験の集大成だ。だからメーカーの方針や設計の意図が見え隠れするが、そのメーカーが辿ってきた経験に突き当たる。特に小さく書かれた条件設定が面白い。なぜそんな条件をつけるのか、つけざるを得ないのかを考えると、同情したり笑ったり腹が立ったりしてひどく人間的になる」

 操縦マニュアルには「通常操作よりも緊急操作の方が先に書いてある。このことは航空の歴史を思わせる。パイロット・レポートを免責にする思想と根は同じだ。何としても事故を予防しようとする決意の現れである。事故があれば真っ先に警察権力が介入してくる国では、考えも付かないことだろう」

「緊急事態といっても大きく分けると2種類あって、まったく有無を言わさぬ事態とややゆとりのある事態だ。エンジン停止はもちろん直ちにオートローテイション操作を始めなければいけない。……僕は機体故障で6回不時着したことがある。その内4回までがエンジンの故障だった。完全停止が1回で、もちろんオートローテーションで降りたが、3回は最後までエンジンに回って貰っている。エンジンはしぶといもので、半分しか馬力が出なくても、激しく振動しても、滅多やたらに止まろうとはしないのだ。慌ててはいけない」

「緊急操作は咄嗟の操作である。理性と本能の境界にある。強力な暗示をかけていないとまず反射的に行動してしまうし、反射神経は本能に制御されている。警報灯が赤々と点き、警報音が危急を告げる中で正しい処置を冷静にするのは難しい。たぶん訓練より修行の問題ではないかと思う。緊急操作は一つひとつの手順もさることながら、まさに教行信証の世界であって、機構や原理を知り、手足を動かし、そうすることを信じなければ出てこない」

ライト兄弟について

 ライト兄弟に関する宮田さんの卓見は、本誌2月号の座談会でもご紹介した。その詳細を直接、宮田さんから語って貰うと、次のようになる。

「ライト兄弟は飛行機の発明者ではなく、操縦の『発見者』なのだと信じている。操縦の発見が空を飛ぶことと不可分に存在し、目で見えるフライヤーに囚われてしまうから発見と発明がごっちゃになり、歯切れの悪い説明になる。たぶん世界中も歯切れが悪いのではないかと思う。……そもそもご当人たちも発見と発明を混同していた。発明だと固く信じ、特許にこだわり不幸な晩年を過ごしている。発明なら特許になるが、発見は特許にならない。彼らが勝訴できなかったのは、彼らが確立したものは操縦の『発見』だったからだ。努力が報いられるとしたら、特許ではなくノーベル賞でなければならなかった」

「発見者は概して不幸な人生を送る。常識を超越するからだ。ガリレオは『それでも地球は動いている』とひそかにつぶやくより仕方が無かった。ダーウィンは進化論を唱えるために20年も懊悩した。しかし発見者は執念をもって自説を信じる。ライト兄弟が操縦を発見し確立するために、住んでいるところから800kmも離れたキティ・ホークまで何年も足を運び、1,000回を超える無動力飛行を繰り返し、何度も飛行機を壊し、それでも諦めず、とうとう操縦を確立したのは発見者の姿である」

「ライト兄弟より前に飛行機を発明した人がいる。中国でも日本でもロシアでもそう唱える人々がたくさんいる。たしかに根拠はあるだろう。もし発明という点に拘るのならば、一概に否定はできないかもしれない。しかし操縦の発見と結びつくものはたぶん無い。飛行機と操縦が不可分とすれば、ライト兄弟のフライヤーに比肩するものは無いのである」

 もう一つは「安定」の問題である。「1900年の当時、飛行機を飛ばそうとしていた人々にはどうしても越えられない壁があった。空中で『安定』を保つ仕掛けが作れなかったのだ。それをライト兄弟は『操縦』によってさっさと解決した。発想の位相がまるで違ったのだ。発見者の資格であろう」

 別のところで、宮田さんは安定問題を操縦によって解決するという発想は、ライト兄弟が自転車屋だったからと語っている。自転車は人が漕ぐことによって安定するのだ、と。

最後の言葉

 宮田さんは「ヘリコプター操縦士として過ごした20年間が気に入っている。かなり満ち足りた20年だったと思う」と書いた。勿論これは大分前に書かれた文章だが、死の一と月ほど前に病床を訪ねた折り「面白かったなあ。面白すぎて、やり過ぎたところもあった。ちょっと申しわけないくらいだなあ」とつぶやいた。この人は最後まで満ち足りた気持ちで生きてきたのだ。

 宮田さんの文藻をふり返って見ると、まさしく「文武両道」の人であった。ヘリコプターの操縦をしながら文章を書き、創案を練りながらヘリコプターを飛ばした。この人にだけは、天は二物を与えたが、それだけ早く天に召されてしまった。

 惜しいかな、無念なるかな、悲しいかな。

(西川 渉、『航空情報』2004年3月号掲載)

 

 宮田さんは、「航空情報」創刊号(1951年)以来の読者であり、最近20年ほどは執筆者でもあった。そして今日までの全725冊が、あるじ(主)の去った書斎に遺されたはずである。

 同誌への主な連載は、「透視図探検」「続・透視図探検」「国破れて戦闘機」「敵艦見ユ!」「艦上攻撃機進化論」など。ほかに著書『ヘリコプター物語』(無明舎出版)、共著『マルチメディア航空機図鑑』(アスキー出版局)ほか多数があり、その一部はインターネットでも読むことができる。主なサイトは次の通り。

 国家戦略とヘリコプター
 宮田豊昭の部屋
 国破れて戦闘機
 DMBパイロットスクール指導顧問室
 操縦士たちのヘリコプター
 ヘリコプター操縦指南 

関連ホームページ

 訃報
 弔辞

(西川 渉、2004.1.23)

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