なめられたのは国民

 

 

 三菱自動車のリコール隠しという事件は、無論ほめられたことではない。けれども、それに対する運輸省の政務次官の言葉を聞いて驚倒した。テレビで放送されたものだが、「平たく言えば運輸省がなめられた」と仰有るのである。何だかヤクザのやりとりみたいで、私はてっきり「監督不行届で申しわけありません」とでも言うのかと思っていた。

 もし「平たく」言うのであれば、ここは車を買った「顧客がなめられた」というべきだろうし、政治家ならば「消費者がなめられた」とか「国民がなめられた」という考えには思い及ばなかったのだろうか。

 おそらく運輸省を代表する次官がそういうのだから、配下の役人も「なめられた」と思っているにちがいない。役人としてはこの20年間まさか手をこまぬいたまま、メーカーが正直に届け出てくるのを待っていたわけではあるまい。当然こちらから出かけていって、法規に関連する事項については検査をするなり、様子を見るなりしたであろう。それでも見抜けなかったとすれば自らを恥ずべきである。そうでないとすれば、見て見ぬふりをしていたのかもしれない。

 いずれにせよ次官も役人も、これまで国民の側に立って仕事してこなかったことが「なめられた」の一言で表面に出てしまった。メーカーとぐるになっていたからこそ裏切られたような、なめられたような気分になったのである。日本の役所には、どこにでも見られることだが、いうところの「サプライサイド」の立場である。

 もし次官や運輸省が昔から国民の側、消費者の側に立っていれば、「なめられた」という開き直ったようなせりふはないわけで、これは運輸省の無責任体制を如実に示したようなものだ。運輸省は今になって身をかわし、自分の方に責任がないみたいな顔をするのはおかしい。

 昔はさまざまな制度が性善説の上に成り立っていた。しかし最近は建設大臣が工事の斡旋をして賄賂を取ったり、若さを売りものの代議士が秘書の給与をごまかして私服を肥やしたり、清潔一直線を看板に当選した代議士の秘書が選挙中に金を配っていたり、政治家どもは、その手下を含めて、もうやりたい放題の出鱈目をやっている。

 これでは、日本の政界と官界はやくざに占拠されたようなもので、あらゆる制度を性悪説を前提に考え直す必要が出てきた。今国会に上程される「斡旋利得処罰法案」などは、その典型であろう。こんな奇天烈な法律も性悪(しょうわる)の政治家が増えたからこそ、つくる必要が出てきたので自ら恥じるべきである。なるほどクレームを隠す自動車メーカーも質(たち)が悪く、リコール制度も性悪説を前提に見直す必要があるかもしれぬが、「なめられた」などと恫喝めいたことを言う政治家も同列である。同じ穴のむじな同士が、今さらなめたもなめられたもないであろう。

 

 蛇足ながら、日本の自動車工業界はいったいどうなるのか。マツダがフォードの配下に入り、日産がルノーに支配され、三菱もまた今回の問題でクライスラーの監督を受けるはめになった。実質上のトップはいずれも外国人である。

 かつては日本車が世界を席巻したが、たちまちにして巻き返され、押さえこまれてしまった。自動車メーカーまでが、外国の下請けに甘んじる航空機メーカーのようにならぬよう願いたい。

(小言航兵衛、2000.9.22)

 

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