おのれパソコン業界!

 

 

 何か月か前に出た『おのれパソコン!』はまことに面白かった。何よりも題名が良い。われわれ素人のパソコンに対する思いが、この一言に凝縮された感があった。同時に内容は涙なくしては読めず、まことに同情を禁じ得ない悲痛なユーモア談義であった。

 パソコンというやつは、とにかく手に負えない代物である。といって放り出すわけには行かない。愛機などという人もいるが、そんな恋人のような思い入れはない。もちろん憎らしいわけでもない。いうなればペットであろうか。けれども単に猫可愛がりの猫ではない。とにかく仕事をして貰わなければならない。夜警や泥棒の番くらいは勤めてもらう必要がある。勿論やってはくれるけれども、番につかせるまでが大変なのである。

 たしかに、パソコンは有能である。だが、その能力を発揮させるには、こちらも有能でなければならない――というほどではない。ある程度のことは勝手にやってくれる。しかし何かの拍子に弱みを見せたり、扱いを間違えると、テコでも動かない。

 このあたりのことを、著者は「ときどきいうことを聞かなくなったり、わけの分からない怪物になったりするパソコンだけれど、やっぱりお前は可愛いやつだよ」と表現している。

 その厄介な怪物の扱い方について、初心者としての体験と気持を余すところなく書いて、われわれ素人の共感を呼んだのが『おのれパソコン!』だった。その続編が『インターネット奮戦記』(石井光男著、中央公論社、1997年7月25日発行)である。これまた面白い本だが、私が下手な紹介をすると却って面白くなくなる恐れがある。どこが面白いのかは、実際に本書を読んでもらうほかはない。

 

 というだけでは余りにそっけないので、ここでは著者が本書の中でパソコンにぶつけた啖呵を拾ってみることにしよう。

「おのれ! 小癪な、今に見ておれ!」
「ははあ、やっぱり」
「そこもと、ことのほか強情なやつよのう」
「ええい、ままよ」
「おのれ、たわけめ!」
「どうだ、見たか!」
「素人と見くびって、いい加減な情報でたばかるでないぞ!」
「なんのこれしき」
「ぬー、いまに見ておれ!」
「さあ、ござんなれ」
「ふん、勝手にするがよい」
「これは、したり」
「はて、面妖な」
「むむ、奇っ怪至極」
「越後屋、汚いではないか!」
「おのれ、推参なり!」
「なあーんだ、そうだったのか」
「ふふふ、どうだ、見たか!」

 

 啖呵とはいったものの、実はパソコンに向かって奮闘する著者の悲痛な叫びでもある。実際、上の威勢のいい言葉とは別に、著者の悲嘆をあらわす台詞も登場する。

「あれ? これでは駄目なのか」
「どうして、こんな簡単なことができないのか、情けなくなる」
「気が滅入ってしまう」
「頭が悪いせいではないか」
「精神的にも疲れ果ててしまう」
「なにをどうすればいいのか、さっぱり分からない」
「不勉強ゆえの自業自得とはいえ……」
「うーん、困った」
「腫れ物にさわるような心地」
「後生だから、いうことを聞いてよね」
「ふーっ、つかれる」
「やれやれ、気骨の折れること」

 これらの言葉を、著者が頭の中でつぶやきながら、絶望感を振り払ってマウスを動かしているさまは、こちらにも思い当たることばかりで、たかがパソコンといいたいけれども、されどパソコン、まこと胸痛む思いがする。

 

 しかし悪いのは機械ではなくて、それをつくる人間であることはいうまでもない。それを著者は「ユーザー対応鈍感症候群」という言葉で表現し、ときには「もう、こんなばかなパソコンやパソコン業界とつきあうのはやめよう」という気持に落ちこんだりする。

 とにかく何十万もの高い金で売りつけておいて、なおかつ買った人をここまで苦しめる商品なんてほかにあるだろうか。著者も「無辜(むこ)の民が塗炭の苦しみにあえぐ世界」と書いている。しかも3か月も経つと、人を小馬鹿にするかのように、もう新しい製品を出してくる。私もしばらく前に、パソコンなんぞこの世になければ春の心はのどけからましと書いたところだが、未熟なまま、不完全なままで商品化しているのである。

 航空の世界にたとえれば、ライト兄弟からいくらも経ってなくて、墜落覚悟で飛ばなければならない時代に相当するのではないか。何だか面白そうだというので、われもわれもと飛んでみる。初めのうちはいいけれども、ちょっと慣れると欲が出てきて速度を増したり、高度を上げたりしたくなる。と、たちまち」風にあおられて墜落に至るのである。

 しかし、それにしては、パソコンはいささか普及しすぎた。その普及のかげで、人びとの精神的、肉体的、経済的苦痛を見ながらほくそ笑む業界人に向かって、私も啖呵を切りたい。

「おのれパソコン業界、そこへ直れ!」

(西川渉、97.8.21、97.8.23改)

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