警察の人事制度を改めよ

 

「われわれの過度の配慮が却って誤解を招いた」――2月18日夜のテレビで聞いた新潟県警本部長の言葉である。沢山の記者団に囲まれて、無表情に語っていたが、まあ何と白々しい口先だけの言葉を、臆面もなく発せられるものかと、聞いている方が逃げ出したくなるようなシーンであった。

 同じ日の『朝日新聞』夕刊には、ちょっと違う言葉遣いで「第一発見者の方に多大な迷惑がかかるんじゃないかと考え、……詳しい経緯をすべて知っていたわけではないが、当時としては正しいと思った」と報じられていた。

 この弁解は子どもの言い訳を聞いているみたいで、それを書き写すのも馬鹿ばかしいが、なぜ「発見者に多大な迷惑がかかる」のかが分からぬ。泥棒でも火事でも、第一発見者は表彰こそされても、迷惑がかかるはずがない。

 聞けばマスコミが殺到し、問い合わせが集中するからという。しかし、こちらに後ろめたいところがなければ、マスコミが殺到してもいっこう構わぬ。むしろ人の手柄を横取りしておいて、迷惑をかけているのは自分の方だということが分かっていない。

 それから「すべてを知っていたわけではない」からといって、免責になるわけでもなかろう。大組織のトップが

知らないのは当然のことで、報告されてきた断片から、的確な判断を下してこそトップの座にすわる資格があろうというもの。全てを知らなければ判断を間違うようなことでは本部長として不適格である。

 第3に「当時としては正しいと思った」というのもヘンな話で、自分が正しいと思えば全て正しくなるのか。正しいか正しくないかは客観的な基準によって決まるもので、自分が正しいと思えば何でも正しくなるのであれば、銀行強盗が「リストラで収入のなくなった当時としては、銀行を襲うのが正しいと思った」と弁解するようなものだ。

 

 まったく、今の日本の警察はどうかしている。神奈川県警のたび重なる不祥事に端を発して、日本中至るところで警察トラブルが発生している。2月18日は新潟県警ばかりか広島県警の本部長までがマスコミの前で陳謝するという、ダブル・トラブルの日であった。

 先日もグリコ・森永事件が時効になった。「時効」というと何だか立派に聞こえるけれども、要するに警察が犯人に降参したことなのだ。しかし大阪府警を初め、近隣各県の警察からは一言も参ったという言葉は聞かれなかった。誰も反省していない証拠である。

 それ以外にも、この1年ほど、警察の上から下まで、金や女や酒にからむ破廉恥罪が多すぎる。何故そんな連続トラブルが起こるのか。私にいわせれば、日本中の警察が余りにも官僚的な体制に組みこまれてしまったからであろう。

 そも県警本部長とは何か。各地の地方分遣隊の部隊長であろう。本来の使命は現場部隊の指揮を執ることである。しかるに、その部隊長になるものが現場を知らず、単に学生時代に試験の要領に長けていたというだけで、犯罪捜査や犯人逮捕の経験も少ない。これでは勘も働かず、犯人をつかまえることができぬのも当然である。

 本来、県警本部長などは現場経験の豊富な、体を張って闘ってきた百戦錬磨の叩き上げがなるべきである。上級職の公務員試験に受かっただけの、答弁がうまかったり、言い訳に長けていたりするのは、余り使いものになるとも思えぬが、いくらかアタマが働くとすればせいぜい情報収集か作戦計画のスタッフぐらいがよかろう。

 警察や軍隊でいざというときにものをいうのは腕力や体力や胆力――すなわち暴力である。暴力が言い過ぎならば武力である。弁解などは下手で構わぬから、記者団に文句があるなら体でぶつかってこいというくらいの胆力をもつべきだった。あるいは弁解の余地がない思えば、あとは黙っているより仕方がない。切るなと叩くなと、煮るなと焼くなと、どうにでもしてくれと言って、座禅の真似ごとでもしている方が余程男らしい。

 

 私もいつぞや、何かの会合で警察庁の職員に質問をして、その答弁を聞いていると余りにご立派なのに呆れてしまったことがある。さる問題について、これからどのようにして実現させていこうかを考える席で、その実行や実現が不可能であるという理由をいくつも並べ立ててどうしようというのか。これでは殺人や誘拐が解決しないのは当然だと思った。殺人犯や誘拐犯は理屈で犯罪を犯しているわけではない。そんな相手に対して屁理屈で負かそうとしても、聞かれるはずがない。尻に帆かけて、さっさと逃げられてしまうだけである。

 警察や軍隊に期待するのは、もっと木訥な、真っ正直の、真面目一本槍の熱のこもった回答である。猪突猛進とか勇猛果敢とはいわぬまでも「ちょっと難かしい問題ですが、まあ何とかやってみましょう」くらいのことは言えないのだろうか。その結果がうまくゆかなくても、破廉恥罪でなければ、多少の恥はいいではないか。真面目に取り組んで失敗に終わったからといって、首までよこせと言うつもりはない。

 警察や軍隊の任務は、舌先三寸で相手を論破することではない。むしろ腕力や体力で勝負すべきことが多いはず。それが妙に弁舌さわやかでは、質問した方が馬鹿にされているようで、それ以上話し合う気力がなえてしまう。まさに「話にならん」というやつである。

 

 県警本部長という現場部隊長も、そつのない答弁をしたがるようでは却って信用を失うであろう。「今後はかかる不始末の起こらぬよう、再発防止に全力をあげて取り組みたい」というセリフは何度も聞かされたが、2度あることは3度も4度も起こっている。果たして彼らは誘拐や殺人に向かって、本当にわが身を捨てて闘うつもりがあるのだろうか。まさか、後方の本部にいて「突撃いー、突っ込めー」などとわめくだけではないのだろうね。

 これでは現場の部隊は動かない。部下は馬鹿ばかしくなって仕事をしなくなる。現に保健所から「男がが暴れてます。助けに来て下さい」という緊急電話が入っても、「忙しいから」とか「そちらで対応しておいて」などというだけで、警察官は誰も動こうとしなかった。結局、犯人を抑えたのも、行方不明者の身元を聞き出したのも、みんな保健所の職員だった。そして手柄だけは、ウソをついてまで、警察が横取りしようとしたのである。

 むろん悪いのは現場の警察官ではない。試験や屁理屈や口先だけで県警本部長になれるような馬鹿げた人事制度であり、その制度にのっかっているだけの本部長である。「勇将の下に弱卒なし」というが、弱将を県警本部長にしてはいけない。第一線で長年の実体験を重ねてきた百戦錬磨の勇者(つわもの)こそが現場部隊長にふさわしい。そうすれば、現場の警察官も即座に電話に反応して押っ取り刀で駆けつけるようになるだろう。

 

 人事は万事である。人の配置がまずければ組織全体が弱くなる。その結果またもや不祥事が起こり、迷惑するのは、記者団にマイクを突きつけられる本部長ではなくて、 国民である。このままでは第2、第3の新潟長期監禁事件やグリコ森永迷宮入り事件や和歌山カレー殺人事件や容疑者逃走自殺事件や幼児誘拐虐殺事件や神奈川県警不祥事件や、こともあろうに警察庁長官狙撃事件や、諸々の殺人、誘拐、強盗事件が後を絶たず、ますます迷宮入りが増えるであろう。

 繰り返しになるが、上級職の試験合格者を中心とするような人事制度は、少なくとも警察や軍隊では採用すべきではない。護民官たることを忘れた警察が上ばかり見ているヒラメ集団のような官僚体制になって、喜んでいるのは犯罪者だけである。

(小言航兵衛、2000.2.20)

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