作 者 素 性
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氏 名
西川 渉(にしかわ わたる)
経 歴
1936年生まれ。1960年東京大学理学部卒業。1975年朝日ヘリコプター取締役、83年朝日航洋代表取締役専務、89年地域航空総合研究所代表取締役所長、2003月5月退任。
現在――
日本ヘリコプタ協会(AHS International Japan Chapter)常任理事(元会長)
(財)日本航空協会評議員
日本航空医療学会監事
(財)日本救急医療財団広域搬送委員会委員
救急ヘリ病院ネットワーク(認定NPO法人、略称HEM-Net)理事
日本災害医療支援機構(NPO法人、略称JVMAT)理事
全日本航空事業連合会ドクターヘリ分科会顧問
日本ヘリコプター事業促進協議会理事
全国地域航空システム推進協議会研究員
かつて――
ドクターヘリ調査検討委員会委員(内閣官房、99年度)
ヘリコプターによる救急システムの推進に関する検討委員会委員(総務省消防庁、98年度〜)
兵庫県姫路市播磨空港研究会委員
農道空港の活性化に関する検討委員会委員(農林水産省、97〜98年度)など
(2003年2月のHAI大会でアメリカの漫画家に描いてもらった似顔絵)
著 作
ドクターヘリ 飛ぶ救命救急室
なぜヘリコプターを使わないのか
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内容
第T部 ヘリコプターによる防災と救急
阪神大震災とヘリコプター
阪神大震災の教訓は生かされたか
初動救援機としてのヘリコプター
情報収集よりも人命救助を
被災者不在の「防災基本計画」
普段の準備と不断の訓練第U部 米国のヘリコプター防災マニュアル
緊急災害時におけるヘリコプターの活用
人命救助の防災計画「ヘルプ・プラン」中央書院(電話:03-3291-4862)発行、¥1,600
出身地
先日、出身地はどこかと訊かれて返答に窮した。生まれたのは宮崎市内である。父の勤め先の関係で、わが家がそこにあったからだが、私がまだ3才くらいのときに別府へ引っ越してしまった。だから宮崎のことは何にも知らない。
しかし、いつぞや、どこかの人名録か紳士録に、出身地の欄に宮崎と書いたものだから、県の郷土雑誌か何かを送ってきて、思い出を書くようにといわれた。もとより書けるはずがなくてお断りしたけれども、それでも出身地は宮崎というべきだろうか。
そこで考えてみると、私の生まれたときの本籍は福岡市であった。だから、出身地は福岡というべきかもしれない。しかし福岡には住んだことがない。同じ福岡県内の久留米で当時の国民学校に上がったけれども、3年くらいしかいなかったし、ここを出身地というわけにもいかないだろう。
中学2年から東京にきた。昔は何かといえば戸籍謄本が必要で、そのたんびに福岡の親戚に頼んで、市役所に取りに行って貰った。手間がかかって申し訳ないし、時間もかかるし、咄嗟の間に合わなくて面倒なことだと思っていたら、父が戸籍を変えたらどうかといったので、大人になってからは東京に移してしまった。とすれば、出身地は東京ということになるのだろうか。
まことに出身地とは厄介である。遠い田舎で生まれ、同じところで育ち、その土地の学校に行き、大学に入る頃から笈を負って東京に出てきたというような人ならば、出身地はどこそこですと、郷土愛や懐かしさを込めて答えることができるであろう。けれどもジプシーのような身の上の者にとっては、うまく答えられないのである。
そこで考えるに、たとえば父親が商社員などをしていて、外国駐在中に生まれた子どもはどうなるのだろうか。その子が大人になって出身地を訊かれたとき、ニューヨークとかロンドンとか答えるのだろうか。また、ときどき国際線の飛行機の中で出産するという話を聞くが、そんな赤ん坊が大きくなったら、私の出身地は太平洋の海の上とでもいうのだろうか。
多分そうは言わないだろうと思うが、そうなると私の場合も、生まれた場所というだけの宮崎が出身地とはいえなくなってしまう。といって、東京出身という実感もないし、やっぱりジプシーのような気分に陥いるのである。
しょうがないので、今年初めに出した本の奥付では、編集者と話し合って著者略歴の項に出身地を書かないことにした。 やんぬるかな、とうとう私の出身地はなくなってしまった。
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