<左利きの問題>

ヒューマン・ファクターとしての左右混同

 

 先日、本頁で「左利きは事故に遭う確率が高く、寿命も短い」という話をご紹介した。これはとっさの判断が遅れたり、瞬間的な反射行動がもたついたり、左右が逆になるためるらしい。

 ところが左利きとか右利きのほかに、左右の区別がつかないという問題もあるというのである。

 最近読んだ本、蓮實重彦と養老孟司の『縦横無尽』(哲学書房、2002年1月20日刊)という対談の中で、養老教授が次のように語っている。

「利き手が決まってないと困っちゃうんです。だっていざっていう時に、パッと手が出ないじゃないですか。どっち出したものかなって考えているうちに殴られちゃう」

「足も利き足がありますから、お気づきじゃないでしょうけど、今パッと出なきゃなんないという時、かならず、利き足が出るんです。利き足が出ない人だけがウサギ跳びカエル跳びになるんです。ウサギやカエルはそれを作つてないから、いざっていうと必ずピョンと両足で跳ぶ」

 この問題は航空事故にもつながる。パイロットは、とっさの場合にも反射的な動きができるよう普段から訓練を重ねているが、常に的確な動作になるとは限らない。その結果が「パイロット・エラー」ということになって、事故原因の大半がそれで片づけられる。

 けれども、エラーだけでは原因の除去や再発の防止はできない。そのエラーが何故起こったのか、もっと科学的にとらえるべきだというので「ヒューマン・ファクター」という考え方が出てきた。

 その基本は、航空技術の進歩に伴い、機材に起因する事故の比率は低下する。けれどもヒューマン・ファクターに起因する比率は相対的に上昇する。同時に、そればかりではなく、航空技術の進歩と共に機材が複雑になり、却って人間がエラーをしやすくなってきた。これは、複雑、精緻な機械が、それを操作する者の限界を超えてしまうためで、個々人の能力や技量よりも、人間そのもの能力や性質が問題という見方にもとづくものである。

 このことを分かりやすく具体的に書いたのが『機長の真実』(デイビッド・ビーティ著、講談社、2002年2月22日刊)である。本の表題が固くて、内容も固いように思えるが、そんなことはない。原著は『The Naked Pilot』(裸のパイロット)という題名で、訳書もそのままの表題にすればもっとよく売れたのではないかと思われるほどである。

 実は私自身、この表題に魅せられて原著を購入したのが2年以上前であった。20ドルほどの本で、結局はツンドクのままだったところへ訳書が出たのである。

 それはともかく、この本の中に利き手と航空事故の問題が出てくる。著者は第2次大戦中の英空軍や戦後のBOACで飛んでいたパイロットだから、イギリス人が中心だろうと思うが、「われわれの88%は明らかに右利きで、9%は明らかに左利き、あとの人たちは明確に区別できない」という。

 このような左右を混同する人が先ず問題で、養老教授の言うウサギ跳びやカエル跳びになってしまうらしく、「ブレーキと間違えてアクセルを踏んだり、左と言いながら右に曲がったり」する。それがパイロットになると「計器を読み違えたり、数字をあべこべに読んだり……方向を間違えたりする」

 ノルウェー空軍のあるパイロットは、「どちらに旋回するのかいつも自信がもてない……飛行機の中では、左右の識別をするのにいちいち結婚指輪を見なければなら」ず、密集編隊を組むのを怖がったという。

 あるいは、離陸後右旋回をして海上に出なければならないのに、左旋回をして山にぶつかったり、右エンジンが故障したのに左エンジンのスィッチを切って墜落するなどの事故が見られる。

 また着陸のための高度計をセットするとき、管制官が滑走路の気圧高度を839ミリバールと伝えたのに、計器を938ミリバールに合わせて滑走路の手前17km地点に墜落した例もある。

 かのサン・テグジュペリも左右の区別がつきにくかったらしい。ある飛行機の試験飛行をしたとき「整備士に、加速すると片翼が下がると指摘したが、どちら側が下がるのかと聞かれて答えられなかった。サン・テグジュペリは太陽に向かって立ち、両手を翼のように広げて上下に動かし再現しようと数分間やってみたが、どちらの翼であったのか、ついにわからずじまいだった」という。

 また、彼の作品『人間の大地』の中で、自分の操縦する飛行機が雲の中に入ってゆくシーン。「かなり明るいと見た光が私の右手に不意に出現する……ふたたび雲の中に入ったのだ。翼灯が雲に反射し……翼は光暈のもとで輝いている。……翼の先でばら色の花束をつくっている」

 しかし右手にばら色の花束ができるはずはない。右翼端の航空灯は緑色で、赤いのは政治の世界ばかりでなく、航空の世界でも左翼だからである。サン・テグジュペリは左側を見ていたにちがいないと、著者は、その錯覚を指摘している。

 そうなると、この本には書いてないが、1944年7月31日、第2次大戦中にサン・テグジュペリが北アフリカ上空の偵察飛行をしていて行方不明になったのも、ドイツ軍に撃墜されたことになってはいるが、何かの錯覚があったのかもしれないという疑問がわいてくる。たとえば左右を間違えて敵の陣営近くに迷いこんだのではないだろうか。

 それでなくても、自覚はなかったかもしれぬが、このような「右も左も分からぬ」人に偵察飛行は最も不適格な任務であった。まだ44歳の若さだっただけに、錯覚で死んだとすれば惜しいことをしたものである。


(サンテグジュベリ)

 このような「左右の混同と数字の取り違えは、ふつう人が疲れているとき、急いでいるとき、プレッシャーを受けているとき、不安な状態に置かれているなどに起こる」。ということは、取りも直さず緊急事態に直面したパイロットの状態にほかならない。

 にもかかわらず、この「課題は、航空業界ではまだほとんど研究されていない。無視されているがゆえに……多くの事故が起きている」と著者は締めくくっている。

 ほとんど理解されてなく、しかも危険性の高いヒューマン・ファクター――左利きの問題はいよいよ放っておけなくなってきた。

(西川渉、2002.4.15)

[後注]
 このような左右混同または左右錯覚を、『The Naked Pilot』では「Laterality」と呼び、『機長の真実』の訳者、小西進元全日空機長は「偏側性」という日本語にしている。学者や専門家はこういう言葉を使っているのかもしれぬが、難かしくて分かりにくいので、ここでは使わなかった。本当は、前後不覚に倣って「左右不覚」としたかったのだが。

 

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