ロシア原潜の沈没

 

 

 昨日のニュースには驚いた。沈没したロシア原子力潜水艦の乗組員の遺族が副首相かだれかに向かって抗議の声をあげているとき、背後から近づいた看護婦であろうか、冷たい表情の女性が肩のあたりに注射針を突き立てたと思ったら、今まで大声をあげていた小母さんが急にぐったりと倒れかかったのである。のちに肩ではなくて、看護婦が背後にかがみこんで腰の辺りに注射をしたという場面も放送された。

 この映像は前半の「あなたは子どもがいるの。階級章を外しなさい」などと叫んでいる場面だが、数日前から繰り返し放送されていた。私も何度か見たけれども、なるほど説明されるまでは注射器を持った女性など気がつかなかった。世界中が気づいていなかったらしく、フランスの新聞が発見して、世界を凍りつかせたのである。

 まことに恐るべき事態で、私はすぐに何年か前のオウム狂団を思い出した。当時あの凶徒たちは、気に入らぬ者がいると殺害に及んだわけだが、その手段の一つが通りがかりに狙った相手の首筋に注射をするというものだった。

 ロシアの現状はまさしく、あの狂団と変わりがない。オウムの場合は注射器の中に毒薬を入れ、ロシアの場合は麻酔薬か何かであろうが、敵対者の口封じに注射器を使うという発想はどちらも同じである。これではロシアの言う言論の自由も民主主義も何にもない。プー沈大統領だって口先では謝罪と弁解に務めているようだが、頭の中はKGB長官の頃と変わらないのであろう。

 こういう狂人国を相手に、北方領土問題を初めとするさまざまな外交交渉をしなければならない外務省もご苦労なことである。近く問題の大統領が来日するようだが、余りまともに応対すると注射などうたれるおそれがある。そうでなくても薄呆けた頭で謝罪と援助ばかりしている外務省だから、注射によってもっと頭が朦朧としたりすると、莫大な援助金など持って行かれかねない。ここは様子見でも日和見でもいいから、適当にあしらってさっさと帰って貰い、領土の返還が決まらぬうちはビタ一文出さぬよう腹を決めてもらいたい。

 

 

 ところでロシア原潜の沈没事件に際し、テレビのニュース解説などで「佐久間艇長」の名を口にする人がいた。その名前には聞き覚えがあったが、具体的な内容は忘れていた。なにしろ明治時代の逸話である。ところが偶然、最近読んだ本『国を売る人びと』(渡部昇一、林道義、八木秀次著、PHP、2000年7月5日発行)の中に詳しい話が出てきた。

 それによると明治43年(1910年)、瀬戸内海で訓練をしていた潜水艇が沈没し、乗組員14人が殉職するという事故が起こった。3日後に引き上げ作業がはじまったとき「人びとの一様に恐れたことは乗員の死に方が阿鼻叫喚の地獄絵図そのままかもしれないということだった。我先に人を押し退けて逃れようとしている者がいるのではないか、あるいは余りに惨(むご)い死に方をしているのではないか……」

 ところが引き上げられた潜水艇の内部を調べてみると、全員整然として死に就いた状況が明らかになった。「当時30歳だった艇長の佐久間勉海軍大尉は司令塔下にいて、他の13名の乗組員も全員、本来の配置に就いたまま絶命していた。人びとの心配は一挙に無限の感嘆に変わったのである」

「もちろん乗員全員が、まず艇が浮き上がるように努力したであろう。しかし、誰一人として自分だけの脱出や生還を試みなかったことは疑いない……息の途絶える最期まで各自の持ち場でその任務を尽くしたのであった」

 おそらくロシア原潜の場合も、衝突か爆発かで即死した人は別として、沈没後しばらく生きていた乗員は整然たる行動を取ったに違いない。しかし明治の日本と違うところは潜水艦に乗っていなかった周囲の関係者の言動である。

 まずは事故の発生を隠し、他国の支援を断り、事故原因は衝突と言い張り、最期は為す術(すべ)もなく全員を死亡させ、あげくの果てに抗議をする母親に麻酔注射をする。

 阿鼻叫喚を恐れるのは本能だが、その一方で恥ずかしい死に方をしているのではないかと心配する気持ちは本能を超越したもので、人間としてきわめて重要かつ困難な精神の働きである。それが少数の個人の思想ではなくて、社会一般の心配ごとだったというのだから、明治期日本の偉大さがしのばれる。

 

 

 このとき酸素がなくなってゆく艦の中で、佐久間艇長は「誠ニ申シ訳ナシ、小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス」ではじまる遺書を残した。そして「部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ワラン事ヲ、我ガ念頭ニ懸カルモノ之レアルノミ」と遺族のことを陛下にお願いしている。

 975字という長い文章で、最後のところに「呼吸非常ニ苦シイ」などの文字も見えるようだが、全文は今ここでは分からない。インターネットで調べても部分的に見つかっただけであった。

 この遺書の濡れたままの写真を見たのが夏目漱石である。これも『国を売る人びと』に教わったことだが、そのとき漱石は、胃潰瘍のため一と月半ほど入院していた。その病床で佐久間艇長の「名文」に感嘆し、「文芸とヒロイック」という短文を書いた。

 私は早速、本棚の奥をかき回し、古い漱石全集を1冊ずつ調べ、30分ほどかかってその文章を見つけ出した。それによると、当時すでに文芸の世界では自然主義がはびこり、ヒロイックは排斥されていたらしい。なぜなら自然主義は現実を描くもので、ヒロイックは現実には滅多にないからだ、といった自然主義者の主張を前提にして、漱石は次のように書いている。

「彼等にしてもし現実中に此行為を見出し得たるとき、彼等の憚りも彼等の恐れも一掃にして拭い去を得べきである。況や彼等の軽蔑をや虚偽呼はりをやである。余は近時潜航艇中に死せる佐久間艇長の遺書を讀んで、此ヒロイックなる文字の、我等と時を同くする日本の軍人によって、器械的の社會の中に赫として一時に燃焼せられたるを喜ぶものである。自然派の諸君子に、此文字の、今日の日本に於て猶真個の生命あるを事実の上に於て証拠立て得たるを賀するものである」

「獣類と選ぶ所なき現代的の人間にも、亦此種不可思議の行為があるといふ事を知る必要がある」

 とても90年前の文章とは思えないが、このように大なる悲劇からはときとして大いなる感動が生まれる。ロシア原潜の悲劇からは、まだ大きな軽蔑しか生まれていないが、船体が引き揚げられたときには何らかのヒロイックが生まれるだろうか。

(小言航兵衛、2000.8.27)

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