救急機の導入とパイロットの資質
――『トラウマケア』を読む（１）――
(本の表紙)これからしばらく、何か月間かかけて『トラウマケア』（外傷治療）という本を読んでゆきたい。英国の外科医、リチャード・アーラム博士の編纂になるもので、Ａ４版240頁のかなり大部の本である。ヘリコプターの雑誌には場違いな医学書かと思われるかもしれないが、表紙を見ればお分かりのように、ヘリコプター救急が本書の主題である。
財源は個人の寄付 「トラウマ」という言葉は最近、日本でもしばしば聞かれるようになった。その場合、多くは自然災害や犯罪事件の被害者が受ける「精神的外傷」の意味で使われる。しかし本来はもっと広く、怪我や火傷などの「身体的外傷」も含まれる。本書の「トラウマケア」は、その身体的外傷に対する緊急治療のあり方を示したもので、構成は表１「目次」に示す通りである。
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編者のアーラム博士はロイヤル・ロンドン・ホスピタル（ＲＬＨ）の外科医であった。同病院のヘリコプター救急システムを創設、その責任者として仕事をしてきたが、現在は退職して別の病院に勤務している。1999年秋の日本エアレスキュー研究会に招き、約１時間の特別講演をしてもらった。
私はその一と月ほど前、ロンドンで博士に会い、講演の依頼をした。そのとき博士から「貴下のロンドン訪問に際し、幸運の祈りをこめて、著者より」という添え書きと共に贈られたのが本書である。もっとも私自身は本書の1997年の刊行間もないころに購入し、所持していた。
博士によれば、ヘリコプター救急システムの整備については、英国と日本は欧米の先進的な国に遅れを取り、同じくらいのレベルだという。だから、お互いに頑張ろうというのだが、この評価にはお世辞が含まれていて、英国は10年以上も前から実行に移されている。ただし財源がはっきりせず、ヘリコプターの運航費に対しては政府や自治体の支援もなく、保険などの適用もない。現在全国11か所で飛んでいる救急ヘリコプターの費用も、ほとんどは住民の寄付でまかなわれている。
日本も、少なくとも今のところは財源がはっきりせず、健康保険などの適用もない。そこまでは英国と同じだが、日本の方はしたがって無為のまま過ごしている。その間に英国側は1987年、最初のヘリコプター救急がはじまった。地域住民の個人的な寄付によって基金をつくり、ヘリコプターをチャーターして救急飛行をはじめたのである。
ヘリコプターの選定 ロンドンの場合も、ヘリコプターが導入されたのはデイリー・エクスプレス新聞社の寄付によるものだった。1997年春からは、その機体をヴァージン・グループのリチャード・ブランソン会長が買い取って、運航費を出している。本書はヘリコプターがヴァージン・グループに移る前に編纂されたもので、最初の導入当時のもようを次のように書いている。
「ロンドンのヘリコプター緊急医療サービス（ＨＥＭＳ）の発足が決まったのは1988年３月であった。エクスプレス新聞社がヘリコプターとパイロット、運航スタッフ、その他３年間の運航費全額――およそ300万ポンドを提供することになったのである」
そこで「この新しい救急サービスをおこなうためのヘリコプターを選定することになった。選定要件は次の通りである。
� 〜佝�機で、計器飛行ができること。
�◆．僖ぅ蹈奪硲何諭�医師１人、パラメディック１人に加えて患者２ 人を搭載し、予備燃料を残して１時間の飛行ができること。
�� ロイヤル・ロンドン・ホスピタルは混雑した市街地にあるため、 屋上から安全に飛行できるという承認を英民間航空当局（ＣＡＡ） から取得できること。
�ぁ〜姐爐砲�んがみて、ヘリコプターは安全かつ信頼できるような過 去の実績をもつものであること」とはいえ、限られた予算の中で新品を買うほどの余裕はない。安くて、しかも信頼性の高い機体を探した結果、見つかったのは「メーカーのアエロスパシアル社がデモンストレーション用に使っていたＳＡ365Ｎドーファンであった。中古機ではあるけれども、飛行時間は少なかった。これをメーカーが半年かけて完全に分解整備し、機体の飛行時間をゼロに戻して、救急装備をしたうえで納入してきた」
実際に使った結果は「1988年12月から96年７月までの８年近い間に3,000時間の飛行をした。年間420時間に相当する。この間、機体の故障で終日飛べなかった日は14日だけで、このヘリコプターの信頼性が如何に高いかが分かる」。機種および機体の選定は間違っていなかったというわけである。
（ロイヤル・ロンドン・ホスピタルの屋上ヘリポートで筆者撮影／2000.7.28）
パイロットの資格と資質 機体が決まれば、次はパイロットである。パイロットは上述のように常に２人が乗り組む。機長と副操縦士ということで、それぞれの採用条件を表２のように定めた。しかし、問題は資格や経験などの表面的な条件にとどまらない。救急飛行という特殊任務に適した資質をもった人を選ばなければならない。
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機 長 |
資 格 |
定期運送用操縦士（回転翼）および身体検査合格証の保有者 |
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総飛行時間 |
2,000時間以上 | |
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機長時間 |
1,500時間以上 | |
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ヘリコプター飛行時間 |
1,000時間以上 | |
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副操縦士 |
資 格 |
事業用操縦士（回転翼）およびメディカルの資格保有者 |
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総飛行時間 |
1,000時間以上 | |
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機長飛行時間 |
750時間以上 | |
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ヘリコプター飛行時間 |
750時間以上 |
「救急ヘリコプターのパイロットには、通常の飛行とは異なった心理的圧力がかかる。人命救助という根本命題から、ときには危険をもかえりみずに任務を遂行しなければならない。そうしたプレッシャーが一時、米国の救急ヘリコプターで多数の事故を起こした原因でもあった。その多くは何とかして任務を達成しようとする余り、気象条件の悪化する中を飛んで障害物にぶつかったり、霧にまかれて前途を見失なったりしたのである」
「したがって、パイロットの採用に当たって重要なことは、面接の段階で応募者の性格を的確に判断することだ。勿論そんなことは不可能に近い。けれども採用してはいけないパイロットは案外、簡単に見分けられる――興奮しやすく、余りに熱情的で、わがままな性格の人である」
このように救急パイロットは困難な条件が課せられ、いつとびこんでくるかもしれない出動要請を待って、朝から晩まで待機していなければならない。しかも、いざ出動となれば、わずかな飛行時間を飛んで、障害物の多い現場に危険を冒して着陸しなければならないのである。
「だが、救急業務に従事するパイロットほど高い満足の得られるヘリコプター・パイロットはいないだろう」と、ＨＥＭＳのアラン・ロック機長は書いている。「ほかのパイロットたちは、ＨＥＭＳのパイロットよりもはるかに多くの飛行時間をログブックに書きこむことができる。しかし満足の度合いにおいて、ＨＥＭＳにまさるものはない」
大都市の中でも着陸 ロンドンＨＥＭＳ機の行動範囲は、都心部に近いロイヤル・ロンドン・ホスピタルを中心に半径30〜40ｋｍの範囲、原則としてロンドンを取り巻くＭ25環状高速道路の内側である。必要があれば外側にも出て行くが、余り遠ければ現場到着までに時間がかかって救急医療の意味がなくなる。逆にＭ25の範囲であれば、別図に示すように、遠くても12分以内に患者のもとへ医師を送り届けることができる。平均では10分もかからずに医師と患者が出逢うことになる。これで迅速かつ的確な治療が可能になり、そうでなければ死んでいたかもしれない人が命を取りとめ、ひどい後遺症が残るような重症患者も予後が良くなる。
ロンドン上空は、テムズ川沿いを除いては、航空機の飛行が禁止されている。しかしＨＥＭＳヘリコプターだけは特別である。そのうえ緊急要請を受けて飛び立ったときは「通常のＧ-ＨＥＭＳというコールサインに加えて、“MEDEVAC”という特別のコールサインが認められる。……これで他の航空機に対して優先的な飛行が可能になる。……しかもパイロットの経験と判断で、市内のどこにでも着陸してよいことになっている」
いうまでもなく、ロンドンは世界有数の大都市である。たしかに公園が多く緑は多いけれども、交通事故が公園の中で起こることはまずない。多くは高速道路や雑踏する市街地だが、現場に近くて、安全かつ最適な場所を選定するのは決して容易ではない。しかも、瀕死の重症患者が待っているわけだから、パイロットには迅速な判断が要求される。そうした困難を克服して、本書が書かれるまでの８年間、ＨＥＭＳ機は合わせて約7,500回の緊急出動をした。そして「事故現場の近くに適当な場所がなくて着陸できなかったのは14回だけであった」という素晴らしい実績を残している。
ロンドンはテキサスではない、というのが関係者のささやかな誇りである。大平原ならば、このような記録もさほど自慢にはなるまい。けれども人と建物の密集する大都会で、いかにしてそのような実績が残せるのか。うまく説明するのはむずかしいが、たとえばネルソン提督の銅像をのせた高い塔が立つトラファルガー広場でも、ピカデリーサーカスの雑踏の中でも、ウェストミンスター寺院の前でも、ローター直径の２倍の広さがあれば、ＨＥＭＳ機はどこにでも着陸する。「降りたことがないのはバッキンガム宮殿の中だけですよ」と、私が病院の屋上ヘリポートを訪ねたとき、そこにいた機長が笑いながら語ってくれた。
あらゆる機関が協力 こうしてロンドンＨＥＭＳ機は、いつでも出動し、どこにでも着陸する。その着陸場所はできるだけ患者に近いところでなければならない。遠くの広場に降りて、患者が救急車でやってくるのを待つというのは、救急機の取るべきやり方ではない。着陸したヘリコプターからは医師が飛び降りて、患者のもとへ駆けつけ、直ちに治療に取りかかる。現場治療こそは救急医療の最も重要な要件である。
ヘリコプターの着陸地点が現場から遠ければ、医師が駆けつけるのに時間がかかる。おまけに息を切らして走ってきたのでは、治療に手がつかない。では、どのくらい近くに降りるのか。最近２年間に出動した2,207回について実際に着陸した距離を見ると表３の通りである。驚くべきことに、全体の４割が患者から50ｍ以内、４分の３が200ｍ以内であった。
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では何故、このようなことが可能になるのか。それは「人命救助」という一点に向かって、関係機関のすべて、関係者の全員が協力を惜しまないからであろう。航空当局からは上述のように「メデバック（MEDEVAC）」という特別のコールサインが認められ、飛行禁止のロンドン上空で、大型機に優先して飛ぶことが認められている。飛行機の出入りで混雑するヒースロウ空港に緊急患者を迎えに行くときも、ジェット旅客機はホールドをかけられる。
また、こうした緊急飛行には通信連絡が欠かせないが、ＨＥＭＳにはコントロール・タワーと交信する航空用無線機ばかりでなく、ロンドン一帯のすべての救急サービスに使われるＶＨＦ ＦＭ／ＡＭ無線機の使用が認められ、病院とも交信できる。機上のドクターは救急現場から病院に対し、負傷者の容態を詳しく伝え、治療の準備を迅速、的確にととのえてもらう。さらに、こうした通信手段を最終的に補うものとして、クルーの各人は携帯電話を持っている。
ＨＥＭＳ機は最近、警察無線も搭載するようになった。というのは大抵の場合、事故現場には警察のパトカーが最も早く到達するからだ。その警察官と交信できれば、あらかじめ現場の状況が分かるだけでなく、着陸場所の確保や交通規制、野次馬の排除などを空中から依頼することもできる。これはヘリコプターと事故現場と一般市民の安全を確保する上で、きわめて有効なことである。
とはいえ、警察は何もヘリコプターの要請を待って行動を起こすわけではない。ヘリコプターの出動は自動的に警察に伝えられるので、その情報は現場の警察官にも直ちに伝達される。ヘリコプターの飛来を知った警察官は、みずからヘリコプターの着陸に適した場所を選定し、必要によって交通規制をおこない、野次馬の整理をして着陸を待つ。また、着陸に適した場所が現場近くにない場合は、離れた着陸地点から現場まで医師やパラメディックをパトカーで運ぶのである。
システムづくりが緊急事態 ＨＥＭＳヘリコプターの待機の時間は午前８時から原則として12時間、もしくはそれ以前の日没までである。待機時間が過ぎたならば、ヘリコプターはロンドン北西にある郊外のデーナム飛行場に戻り、格納庫に入って整備点検を受ける。
夜間飛行をしない理由は、本書によれば表４の通りである。これを、さらに要約すれば、安全と騒音とコストということになろう。
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� ．蹈鵐疋鵤硲釘唯咾両豺腓蓮�原則として常に現場に着陸する。しかるに、夜間は周囲の障害物を見分けにくく、安全上の危険性が残る。 �◆〔覺屐⊂絛�から安全な着陸場所を探すには時間がかかり、救急車との時間差がなくなる。 �� 夜間は市内の交通量が少ないので、地上の救急車でも比較的早く現場に到達できる。 �ぁ〔覺嵌�行は騒音の影響が大きい。 �ァ〔覺嵌�行の実施、すなわち24時間の待機をするためには人員体制を今の２〜３倍にしなければならない。また機材の夜間整備もできなくなるので、予 備機が必要になる。 |
ただし、日中に出動し、日没を過ぎて戻ってくるような飛行はおこなう。救急現場に明るいうちに着陸し、周囲の障害物を見ておけば、日が暮れてから離陸するのはさほど困難ではない。こうした飛行にそなえてロイヤル・ロンドン・ホスピタルの屋上には夜間照明設備がととのえられている。
本書冒頭の以上のような一節をまとめるに当たって、アラン・ロック機長は次のように締めくくっている。
「われわれは８年間の救急活動をしてきて、ヘリコプターがなければ命をなくしたに違いないという事例を数多く目撃した。これはどうしても全国的なシステムに拡大しなければならない。このシステムづくりこそが今や緊急事態である――余りに多くの人命が無駄に失われているのだ」
（西川渉、『ヘリコプター・ジャパン』誌2000年８月号掲載）
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