ヘリコプター救急と警察

――『トラウマケア』を読む(5)――


(本の表紙)

 

 

阪神高速道路に着陸

 平成12年5月30日付けの神戸新聞に次のような記事があった。

「29日午後3時45分頃、神戸市内を走る阪神高速道路で乗用車の事故が発生、乗っていた4人が重軽傷を負い、そのうちの1人が意識不明の重体となった。約20分後、神戸消防局のヘリコプターが高速道路上に着陸、重体のけが人を収容して神戸ヘリポートへ飛び、そこから救急車が近くの中央市民病院に搬送した。救急ヘリコプターが高速道路に着陸して患者を搬送した例は、日本では珍しい」

 確かに、救急のためにヘリコプターが高速道路に降りたのは、過去10年ほどの間に2度目か3度目だそうである。負傷者がうまく助かったのは慶賀すべきことだが、事例の少ないのには吃驚させられる。

 高速道路の事故は、車のスピードが出ているだけに大きな惨事になりやすい。しかも事故のために交通が渋滞し、車が詰まってしまうと、救急車が現場に近づけない。ヘリコプターこそは最適の手段であろうに、それが活用されていないのだ。

 そのうえ、この事例では、神戸消防局に対し警察から呼び出しがかかったらしい。さらに地元ばかりでなく、霞ヶ関でも消防庁と警察庁の間でもやりとりがあったと聞いた。ヘリコプターが道路に着陸するとどんな罪になるのか。救急業務だから航空法上の違反はないはずだが、道路交通法の往来妨害罪か危険罪にでもなるのだろうか。そういえば昔、ヘリコプターは自動車のようなナンバープレートをつけていないから、路上に降りると法律違反になるという笑い話を聞いたことがある。

 瀕死のけが人を助けに行くのに、いちいち六法全書で確かめるなどという法匪がいるとは思えぬが、ひょっとすると人命よりも法律を重視する人がいたのかもしれない。無論そんな常識はずれの“神戸事件”は、たいした問題にはならなかったけれども、今後このような場合どうすればいいのか。具体的な要領をあらかじめ決めておこうというので、消防と警察の協力体制に関する話し合いがはじまった。是非とも積極的な業務要領が決まって、高速道路の事故に救急ヘリコプターが日常的に活用されることを期待したい。

 

救急と警察の緊密な連絡

 この例でも分かるように、交通事故のけが人は救急車や救急ヘリコプターだけで救助するのはむずかしい。どうしても警察の協力、というよりは警察との共同作業が必要で、路上の安全を確保したり交通の規制をするには警察官の存在が不可欠である。むろん警察の方にも人命の保護という責務があるから、救急業務も決して他人事ではないであろう。

 本書『トラウマケア』も、そのあたりのことを警察の立場からきちんと書いている。「ロンドン警視庁は消防庁、ロンドン・アンビュランス・サービス(LAS)、およびヘリコプター救急サービス(HEMS)と密接な協力関係を保ち、救急業務の一翼を担っている。これら公共機関は同じ目的――すなわち人命の保護に向かって、一丸となって仕事している」と。

 この任務遂行のために、ロンドン警視庁が最も重視する要件のひとつは「コミュニケーション」である。そこでロンドン・アンビュランス・サービス(LAS)は、ヘリコプター出動を決めると、ロイヤル・ロンドン・ホスピタルの屋上ヘリポートにいる運航管理者に出動指示を送ると同時に、「ニュー・スコットランド・ヤード」(ロンドン警視庁)にも情報を流す。これを受けた警視庁司令室は、「すべての関連情報を“コマンド・アンド・ディスパッチ”(CAD)システムに入れる。するとコンピューターが自動的に事故現場を管轄する警察署を判別する。そこでボタンを押すと、情報は即座に該当地域の警察署に送られ、警察官が携行している無線機にも伝わる」

 これで現場の警察官はヘリコプターの飛来を知り、直ちに着陸予定地点を選定し、交通規制をおこない、周囲の群衆を整理する。着陸予定の場所が事故現場から遠くにしか取れないときはパトカーか適当な車を用意して、ヘリコプターの医療スタッフを患者のそばへ連れて行けるよう準備する。「これで医者は重たい治療器具をかかえて患者のところまで走る必要がなくなり、息を切らさずに落ち着いて治療にとりかかることができる」

「この通信システムは、逆に作動させることもできる。すなわち現場の警官が携帯無線機でコントロール・ルームにもっと詳しい情報を送る。その情報でCADが更新され、警視庁へ返送され、そこからさらにLASまで情報が伝えられる。この最新情報は直ちにヘリコプターにも伝えられ、ヘリコプターの乗員は常に最新の情報を知ることができる」

「地上の警察官は直接ヘリコプターと交信することもできる」。そのためヘリコプターの機長は眼下の警察官との間で相互に確認し合いながら、安全に現場着陸を敢行できるのである。

 

野次馬に答える警察官

 しかし、このような「ヘリコプター・システムと警察との協力体制は一朝一夕にできたわけではない。それができ上がるまでには長い間の協議が必要だった」。冒頭の“神戸事件”に見るように、警察と救急との関係は英国も日本も変わりはなかったのである。

「今では現場に到着した警察官みずから患者の状態を判断し、所轄警察のコントロール・ルームを通じてヘリコプターの出動を要請することもある。このような有効な数分間が患者の生死を分けることにつながるのである」

 もうひとつ、現場の警察官がヘリコプターの飛来を知れば、そこに倒れているけが人に、間もなく医師をのせたヘリコプターがくることを伝えることもできる。これで患者は絶望の淵から救われるにちがいない。

「ヘリコプターが着陸し、医療チームが患者の手当をはじめると、警察官の役割は補助的なものとなる。必要に応じてヘリコプターの周辺を警備し、見物人が近づくのを防ぐ。これでパイロットは地上で待機中も余計な気を散らすことなく、安全に飛行することができる」

 本書には現場に集まってきた野次馬と警察官とのやりとりも書かれている。

野次馬「何故すぐに、あそこの病院へ患者を運ばないの?」
警官「あの病院は小さくて、この患者の治療ができないんです」

亭主「あそこに怪我をして倒れているのは私の妻です。ヘリコプターに一緒に乗せて貰えますか?」
警官「パイロットに訊いてみましょう。同乗できないときはパトカーで病院まで送って上げますよ」

野次馬「医者が患者の治療をしている間、ちょっとヘリコプターの中に坐ってみてもいいですか?」
警官「駄目です。ヘリコプターはいつでも患者さんをのせて飛び立てるようにしておかねばなりません」

野次馬「救急ヘリコプターはなぜ夜は飛ばないんですか。警察のヘリコプターは夜も飛んでるでしょう?」
警官「救急ヘリコプターは必ず現場に着陸しなければなりません。夜間の着陸は周囲の障害物が見えないので非常に危険です。警察ヘリコプターは、夜間は着陸しないんです」

野次馬「警察の車には、なぜ屋根の上に文字が書いてあるの?」
警官「ヘリコプターから見て、区別できるようにするためです。これでヘリコプターから個々の車へ無線指示ができます。追跡や捜索のときは非常に便利です」

 こういう会話から見ると、ロンドンっ子はよほどお巡りさんに親しみを持っているらしい。警察官の方も緊急事態の中で、丁寧に野次馬の相手をするのである。

 

警察と救急の相乗効果

 とはいえ、警察官は野次馬の相手ばかりしているわけではない。「治療現場で医師の手伝いをして点滴の容器を高く持ち上げたり、ヘリコプターのところまで患者を運ぶのを手伝ったり、最寄りの病院までパトカーで救急車を先導することも多い」

「警察官は現場の安全も保持しなければならない。患者の治療ばかりでなく、事故原因の調査のために多数の人が路上に立っている。そこへ別の車が突っ込んでくるようなことがあってはならない。事故原因は単に車の故障ばかりでなく、犯罪に関係するかもしれない。ひょっとしたら自動車事故をよそおった殺人事件かもしれないので、警察官は常に犯罪の匂いをかぎわけながら仕事をしなければならない」

 交通規制も警察官の重要な役割である。とりわけ「2車線の道路では、ヘリコプターの着陸に際して両方向の交通を規制しなければならない。ヘリコプターが降りてくるとドライバーが脇見をするので、再び事故が起こる可能性があるからだ」

「ヘリコプターが飛び去った後も、警察官は現場にとどまり、状況報告をすると共に、事故原因の調査にあたらなければならない。ヘリコプターのダウンウォッシュなどで付近の民家に被害を与えたようなときは、その調査もおこなう。過去の例では、ある男が被害をでっち上げてロイヤル・ロンドン・ホスピタルに賠償請求をしてきたことがある。しかし現場の警察官があらゆる損害を記録していたため、ヘリコプターによる実際の被害はごくわずかであることが明らかにされた」

 警察や消防は、われわれ国民にとって何かあったときはいつでも助けにきてくれる頼もしい存在である。それが相互に協力しながら一体となって事に当たるならば、上に見たような相乗効果が生じ、いっそう大きな救命効果が得られることとなるであろう。

(西川渉、『ヘリコプタージャパン』2000年12月号掲載)

 

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