英国のヘリコプター救急

――『トラウマケア』を読む(6)――


(本の表紙)

 

 

ヘリコプター救急は14か所

 2000年11月2日の日本航空医療学会で『日本航空医療学会雑誌』創刊号が会員に配布された。A4版90頁の学術雑誌で、13篇の論文が掲載されている。その一つが本書『トラウマケア』の編著者、リチャード・アーラム先生の講演録――1年前の当学会でおこなわれた特別講演の記録である。

 その中で、アーラム先生は「救助や救急のためにヘリコプターを使う経験は、スイスが50年、ドイツが30年ですが、イギリスは最も少なくて10年しかありません」と嘆いている。そしてイギリスのヘリコプター救急は「ロンドン以外でも全国13の地域でおこなわれています……が、内容はさまざまで、単に患者を搬送するだけのところもあります。したがって、ヘリコプター救急とは救急専門のドクターが搭乗するという原則を確立したいのですが、まだそこまで至っておりません」

 この講演が終わった後で「それでも、日本にくらべればまだ良いでしょう」と訊ねたところ、サッチャー政権の時代は国民の健康を無視し、医療政策に無関心だったから、ヘリコプター救急の後進性は英国も日本も同じようなものという答えが返ってきた。そして「サッチャーは、兵隊は好きだったけど看護婦は嫌いだった」という先生一流の冗談がつけ加えられた。

 むろん日本も同じというのは、相当なお世辞が含まれているわけで、事実はイギリスの方がはるかに進んでいる。なにしろ全国14か所で救急ヘリコプターが飛んでいるのである。ただし、これまで本書で見てきたような模範的なシステムができているのはロンドンだけで、あとは先生の言うように不完全なところが多い。

 

住民の寄付でまかなう

 不完全の第1は、この連載の第1回(2000年8月号)でも触れたように、財源がはっきりせず、ヘリコプターの運航費に対しては政府や自治体の支援もなく、医療保険などの適用もない。警察の3か所を除いて、11か所で飛んでいる救急ヘリコプターの費用は、ほとんど住民の寄付でまかなわれているのである。

 とはいえ、国や自治体がやってくれないからと言って手をこまねいていないのが英国民の心意気というのであろうか。住民の個々人がわずかずつの寄付を持ち寄り、ガレージセールをしたり、富くじを出したりして資金を集め、それでヘリコプターをチャーターして自らの命を守るための救急業務に当てている。

 このことは本書『トラウマケア』でも取り上げてあって、イングランド地域の5か所で飛んでいる救急ヘリコプターのもようが紹介されている。使用機はいずれも小型双発機で、2か所がAS355F、3か所がBO105。うちAS355Fの1機は、ロンドンHEMSのように、特定のスポンサーが購入して寄付したものだが、残り4機は住民の持ち寄った寄付金でチャーターしたものである。

 第2の問題は、これら5機の救急機には、いずれも医師が乗っていないことである。「注意しなければならないのは、パラメディックだけのヘリコプターは、ロンドンHEMSのような医師の乗ったヘリコプター救急とは異なる。単なる空の救急車にすぎない」と、本書は書いている。

 この点は、上記アーラム先生の講演でも触れてあったように、救急ヘリコプターには救急専門医が乗るという原則が確立されていないからであろう。何故その原則が確立されないのか、理由は書いてないが、人材が不足していたり、住民の寄付だけでは医師の搭乗経費までまかなうことができないといったことが考えられる。

 余談ながら先日、ロイヤル・ロンドン・ホスピタルで会った医師は、救急医としてまだ5年間の研修課程にあるが、いずれ1人前になったら北アイルランドのベルファストに戻ってヘリコプター救急体制をつくり、それに乗って飛びたいと語っていた。なにしろ自分の出身地は100km×200kmほどの地域に脳外科医が1人いるだけ。交通事故などの患者は半日かけて医師のところへたどりつく有様で、絶対に救急ヘリコプターが必要だが、今のところはまだないそうである。

 

不完全でも5つの効果

 しかし医師が乗っていなくても、ヘリコプターはそれだけで機動力がある。イングランドの事例を紹介する本書では、第1に「救急車では時間がかかるような遠いところからも医師と設備のととのった大きな病院まで迅速に患者を搬送してくる」ことができる。「もうひとつは病院間搬送、もしくは病院からの退院搬送である。これも搬送区間の遠い場合に有効で、救急車で長時間走っていては患者のためによくないような場合に使われる」

「さらに未熟児を専門病院へ搬送する役割も増加してきた。いま試みられているのはヘリコプターの電源を強化して特殊なインキュベーター(保育器)を機内に取りつけ、未熟児を搬送することである」

「救急ヘリコプターの4つ目の利点は、規模の大きな事故や広域災害が起こった場合、迅速な対応ができるということであろう。災害現場を上空から偵察し、医薬品を緊急輸送し、多数の患者を短時間で救出搬送ができる」

 さらに、ヘリコプターの第5の効用として「ヘリコプターで搬送された患者だけを救うばかりでなく、救急車で運ばれる患者も救うのである。というのは、もしもヘリコプターがなければ救急車が長距離の搬送に時間を取られ、次の患者はそれが戻ってくるのを長く待っていなければならないかもしれないからだ」

 こうした実績を重ねてきた結果、ヘリコプターは「既存の救急車による救急体制を補足するような形で、わずかな症例に限って出動しているが、それでも救命効果を上げていることは明らかである。つまりプレホスピタル・ケアのレベルを高めることが実証された」

 

全国統一組織の実現 

 しかし、これらの5点は、あくまで発展途上の効用にすぎない。ヘリコプターの持てる機能の一部分しか発揮されていないのである。最終的には「外傷治療センターと連動し、医師が同乗するような、全国的に統一された新しい戦略的思考が必要である。ヘリコプター救急は、なるほど初期投資額は高い。けれども総合的に見て救命効果、治療効果の高いことは、欧米諸国の先進事例で確認されてきたところである。これを統一組織で実施するとすれば、イギリスでは全国24か所に拠点を置けば充分であろう」

 その実現に向かって、これまで個々ばらばらにおこなわれてきたイギリスのヘリコプター救急が、いまようやく全国的な統一組織として活動をはじめようとしている。1997年に設立された「英国エア・アンビュランス・サービス協会」(NAAAS)である。これで関係者が団結して運航問題、経済問題、医療問題などを話合い、最終的には国や自治体を動かすのが目的である。

 協会に参加している顔ぶれはヘリコプター運航会社を初め、危機管理の専門家、救急専門医、航空局など。その甲斐あって、最近NAAASに対しイギリス自動車連盟(AA)が向こう3年間に1,400万ポンド(約25億円)の資金協力をすることになった。これで7機のヘリコプターを導入し、ヘリコプター救急の拠点を20か所程度に広げる計画という。

 住民の寄付という呼び水によって全国的な組織が形成され、やがては国や自治体も乗り出してくるにちがいない。アーラム先生の嘆きが終わるのも近いことであろう。

(西川渉、『ヘリコプタージャパン』2001年2月号掲載)

 

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