ドイツ救急ヘリコプターの発展
――『トラウマケア』を読む(8)――
(本の表紙)この4月からいよいよドクターヘリコプターの本格的事業がはじまった。ヘリコプター救急が日常化するのは、わが国ではこれが初めてのことである。それが今後どこまで普及するのか――もとより日本全国がヘリコプター救急システムによってカバーされるところまで普及し、普通の救急車と同じように救急ヘリコプターが飛び回る日がこなくてはならない.。果たしてどのくらいのペースで、どこまで日常化していけるか。その期待と課題をドイツのヘリコプター救急システムの発展ぶりに照らして見てみよう。
救急搬送から現場治療へ 本書『トラウマケア』は、いうまでもなくロンドンのヘリコプター救急サービス(HEMS)について書いたものである。しかし、そのシステムのモデルの一つになっているのがドイツのシステムであり、したがって本書にも、ドイツの救急体制がどうなっているかが書かれている。
著者はゲルハルト・クグラー氏。ドイツ自動車連盟(ADAC)でヘリコプター救急活動を推進してきた最高責任者として、日本でもよく知られている。昨年5月には、ADACを定年退職し、欧州全体のヘリコプター救急活動を統合する欧州エアレスキュー委員会(EHAC)の会長に就任した。その半年後、2000年11月には日本航空医療学会で「ヨーロッパを中心とするヘリコプター救急の成果と将来展望」と題する特別講演のために来日した。
さて、本書の中で、クグラー氏は「ドイツのヘリコプター救急はADACからはじまった。きっかけは自動車事故がきわめて多かったためで、最初のプログラムが正式に発足したのは1970年11月2日であった」と書いている。
「その本質は営利目的ではない。州政府や地方自治体によって統轄されている。ヘリコプターの担当地域は、その能力を最大限に発揮できるよう、各ヘリコプター基地から半径50〜70kmの範囲とし、1次救急、すなわち現場へは平均8分で飛ぶことができる」
「ヘリコプター救急の基本は医師による迅速な患者の治療である。すなわちヘリコプターの役割は医師を一刻も早く患者のもとへ送り届けることであって、患者の搬送は二次的な役割である」
昨年11月の特別講演でも、クグラー氏は「このシステムは当時“ミュンヘン・モデル”と呼ばれ、後に世界中に広がるわけですが、救急医療における全く新しい二つの基本理念に基づくものでした。一つは、医師を患者のもとへ連れてゆき、それまでの“救急搬送”を“現場治療”に置き換えるということ。もうひとつは、そのためにヘリコプターを使うということです」と語っている。
この同じ考え方が日本のドクターヘリコプターにも受け継がれていることはいうまでもない。
救急車なみの出動回数 こうして始まったヘリコプター救急サービスは「初めのうち、出動目的の75%が交通事故現場への飛行であった。しかし最近は、飛行回数は増えながら、交通事故の現場救急は31%に減っている。このことは交通事故以外の救急にもヘリコプターが数多く出動するようになったことを示している」
出動実績は、本書の書かれた1996年頃までの数字だが「1970年以来の救急出動回数が616,000回になる。全国50基地の飛行回数は、合わせて年間5万回」と書いてある。現在では総計100万回に達し、1999年中の出動実績は62,745回であった。救急ヘリコプターの拠点数も51か所で、1拠点あたりの出動回数は1,230回になっている。1日3.3回以上の出動に相当し、救急車なみの活動をしているといってよいであろう。
こうした活動をするために、「ヘリコプターは救急内容の詳細が確認できなくても離陸する。また出動するかどうか、はっきりしないときは患者のためになることを念頭に置いて判断する」
では、ミュンヘンの最初の拠点がどのくらいのペースで現在の51か所に増えたのか。その経過を見てみよう。といっても、そんな説明は本書には書いてない。そこで、昨年クグラー氏から貰った『独逸における航空救急ステーション』(Luftrettungsstationen in Deutschland)と題する100頁余りの本を調べることにする。
余談ながら、この本はADACが出しているもので、「クリストフ、早く助けに来て!」という副題がついている。それというのも、昔「オフォラス」という巨人が幼児期のキリストを背負って夜の川を渡ろうとした。そのとき小さなキリストから異様に思い体重がかかって水面が下がり、それによって無事に渡りきることができたという伝説がある。そこから巨人はキリストを背負った人という意味で聖クリストフォラスと呼ばれ、旅人の守護神とみなされるようになった。
ADACが1970年にヘリコプター救急を始めるに当たって、救急機に愛称をつけることになり、自動車のドライバーを守るのに最もふさわしい呼称として「クリストフ」を採用したのである。それにより、ミュンヘン・ハラヒン病院に待機をすることになった救急ヘリコプター第1号には「クリストフ1」という名前がつけられ、フランクフルトの救急第2号機はクリストフ2、ケルン機はクリストフ3というように、ドイツの救急ヘリコプターは全て「クリストフ何番」という愛称を持つようになった。
15年で一応の完成 さて、ADACの救急ステーションの本には、ヘリコプターの待機している拠点が1か所ごとに地図や写真入りで詳しく説明されている。その中から各拠点の開設年を一つずつ拾ってゆくと、1970年の最初のミュンヘンから97年に開設された51番目のマインツまで下表のように増えていったことがわかる。ちなみにドイツの国土面積は357,000kuで、日本の378,000kuに近い。そこに28年間をかけて、全国をカバーするヘリコプター救急体制が出来上がったのだ。
これは毎年1.8か所ずつのペースである。わがドクターヘリもこの調子で増えてゆけばいいような気もするが、ドイツに30年の遅れを取った日本としてはもっと急がなくてはならないはず。現に今年度は、4月から1か所で飛んでいるが、下期には6か所になる予定だ。
ドイツ救急ヘリコプター拠点増加の経緯
時期(期間) 拠点新設数 拠点数累計 備 考 1970年
1か所
1か所
ヘリコプター救急の開始
1971〜73年(3年間)
9
10
――
1974〜76年(3年間)
12
22
――
1977〜81年(5年間)
9
31
12年間で31か所
1982〜84年(3年間)
4
35
西独の95%以上をカバーして一応完成
1987年
1
36
ベルリンに拠点新設
1990年
2
38
東西ドイツ統一
1991〜94年(4年間)
11
49
旧東ドイツへ普及
1996〜97年(2年間)
2
51か所
――
そこで、もう少し詳しくドイツの拠点整備の状況を見てゆこう。上の表に示すように、最初の4年間で10か所になっている。そして次の3年間に12か所が増設されたから7年間の累計は22か所――年間3か所以上のペースだったことが分かる。
それから次の5年間、すなわち1981年までの足かけ12年間に30か所を超えた。昨年、厚生省の非公式の目標は、初年度7か所からはじめて、将来に向かっては取り敢えず30か所にドクターヘリを配備するというものだった。それが何年後を考えたのかは分からぬが、ドイツの場合は10年ほどで30か所の拠点整備を果たしている。
そして1984年までの15年間に35か所に達し、当時の西ドイツの国土の95%以上をヘリコプター救急がカバーするようになった。東西に分断されていたドイツとしては、これで一応の完成といってよいであろう。
しかし当時、クグラー氏の頭にあったのは、東ドイツ地域に孤立していた西ベルリン地区――そこも西ドイツの一部ならば矢張りヘリコプター救急が必要ということだった。実現したのは3年後の1987年。その頃クグラー氏に会ったとき開口一番「ベルリンでも救急ヘリコプターが飛べるようになった」と嬉しそうに語ってくれたのを思い出す。
患者のためになるか しかし実は当時、西ドイツの航空機はベルリンに飛ぶことができなかった。ベルリンはまだ連合国の占領下にあり、航空機は救急ヘリコプターばかりでなく、定期便も西ドイツの飛行機は飛べなかった。ベルリン便は西ドイツからも欧州各地からも、アメリカやヨーロッパ諸国の飛行機が飛んでいて、ルフトハンザ航空でも飛べなかったのである。
そのためベルリンの救急ヘリコプター「クリストフ31」も、アメリカのオムニ・ヘリコプターをチャーターし、米国籍の機体が就航した。クグラー氏としては嬉しくもあり、残念でもあるといった心境ではなかっただろうか。
ちなみに氏は東ドイツ地域の出身で、終戦直後まだ子供の頃、ソ連占領下の東ドイツから西側へ逃れてきた人である。したがって東西ドイツの統一を最も希望するひとりではなかったかと思われるが、その希望がかなったのが1990年であった。
クグラー氏は直ちに旧東ドイツ地域へのヘリコプター救急システムの整備に取りかかった。そして東西の統一ができたかできない1990年、早くも2か所の拠点を設け、翌91年から4年間で11か所をつくり、97年までに現在のような51か所の拠点を完成したのである。
このような国家的なシステムづくりは、もとよりクグラー氏一人でできるものではない。ドイツの場合でいうならば、国のレベルにはじまって州政府や市町村のさまざまな公的機関や団体、企業などの協調体制が必要になる。
昨年秋の特別講演でも、氏は「エアレスキューはさまざまな分野のさまざまな機関が絡み合った複雑なシステムです。医師、技術者、政府機関、ヘリコプター会社、病院、保険会社などが関係してきますから、関係者の間の調整は大きな困難を伴います。ときには基本問題を忘れて、袋小路に迷いこんでしまうような議論になることもあります」と語っている。
その困難な調整役を努めてきたのがほかならぬゲルハルト・クグラー氏であった。この人の情熱が、世界で最も先進的、最も体系的、最も模範的なヘリコプター救急システムを作り上げたのである。その過程を振り返って、クグラー氏はこう語っている。「議論が如何に混乱しようとも、最終的な判断基準はひとつしかありません。それは患者のためになるかどうかという一点です」
日本も、その一点に向かって急がなければならない。
(西川 渉、『ヘリコプタージャパン』2001年5月号掲載)
(クグラーさんと山野さん――2001年6月ミュンヘンのリマホーフ・ホテルの庭で昼食)
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