専門用語の壁をくずす




 『季刊――本とコンピューター』(1997年夏号) という魅力的な雑誌が出た。

 コンピューター関連の雑誌といえば、大抵は扇動的でけたたましく、はしゃぎ過ぎのものが多いが、これは体裁も内容も落ち着いていて品があり、自制心と自省心をもって、本とコンピューターの行く末を深くゆっくり考えようという気持にあふれている。


 この中で面白かったのは、「百科事典が動いた」と「わがブラウザー遍歴」。どちらも開発の苦心談で、いかに使いやすく見やすいものをつくるか。その理想を追究する工夫の跡が読者の興味をそそる。特に後者は、インターネットや電子メールや電子本をCRTの画面上で、どのような道具を使って読むかという問題が、歴史的、体験的に書いてある。

 その中に、普通のWWWブラウザーで取り込んだデータをエキスパンドブックで読む話が出てくるが、確かに今のWWWブラウザーは読みにくいところがある。もっとも、それはブラウザーのせいばかりではなく、ホームページの制作者の方にも問題があるのではないか。無闇にレイアウトに凝ったり、ただでさえ狭い画面をいくつものわく組みに分けるからであろう。全体を一望させようとして、今度は細部が細切れになってしまい、結果として読みにくい頁になったところが多い。

 私の場合は本頁でご覧のごとく、技術的に未熟なせいもあって、何か新しいことをやろうとすると大変な時間がかかり、結果的に何にもできないことが多い。そこで最近は諦めることにして、レイアウトやデザインにはシンプルで時間をかけないようにしている。もっとも、いつまた気が変わるかもしれぬが。



 さて、この季刊誌の中で共感したのは編集同人代表の津野海太郎氏のあとがき「創刊にあたって」である。とりわけ「専門用語の壁をくずす」という部分で、著者は次のように書いている。

「そこには……難解で神経質な用語群しか存在していない。コンピューターやマルチメディアも、いまのところはまだ、それらの用語によって築かれた壁のうちにがっちり囲いこまれてしまっている……この壁を崩さない限り、コンピューターやマルチメディアの世界をふつうの読者と共有することはできない」

 余談ながら、私もかつて本頁の中で「専門家同士がどんな隠語を使おうと、どんなジャーゴンをもてあそうぼうと勝手だが、それだけでは、外部の人間がこの世界に入れないではないか」という悪態をついたことがある。そして「コンピューターが、これからの新しい日本文化の一端を築いてゆくとすれば、そこに使われる用語も正しく解りやすい日本語でなければなるまい。パソコンの普及のためには、先ず専門家諸君の言葉づかいを改めるべきだ」と書いたが、海太郎氏の主張には大いに賛成したい。

 ただし、氏が「神経質な用語群」と書いているのはほめすぎで、私ならば「無神経なカタカナ語」と言いたいところである。前節でも、私は「わく組み」と書いたが、業界ではフレームというらしい。英米語でframeというのは当然だが、日本語でフレームというのは何だか隔靴掻痒の用語、というよりも「痒語」である。専門家だけのひとりよがりはやめてもらいたい。

 著者は最後に「壁の内側でどんなにすぐれたことばが発せられたとしても、それが壁の外の読者に伝わらなければ、そのことばにはなんの意味もなかったことになってしまう」として、次のようなドナルド・クヌースというコンピューター科学者の発言を引用している。

「専門家ですら、自分の専門領域について非専門的なことばで、わかりやすく語られた文章を好みます。いわんや非専門家においておや」

 一刻も早くでたらめ用語の整理に手を着け、素人にも理解できる日本語づくりをはじめるべきではないかと思う。


 『季刊――本とコンピューター』は、そういった専門領域の壁を取り払う方向をめざすそうだから、今後の活動の中で分かりやすく、きれいな日本語としてのコンピューター用語が生まれてくることを期待したい。

 近く、本書の同人によるホームページの開設予定もあるとのことで、それも楽しみである。

 

(西川渉、97.8.2

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