医療事故の防止

――臓器移植の資格(3)――

 

 最近なぜか医療ミスに関するニュースが多い。患者を取り違えて手術をしたとか、薬液と消毒液を間違えて点滴をしたとか、身体の中に手術用具を放置したままだったとか、恐ろしい話ばかりである。

 これは、医療ミスが増えたからニュースも増えたのか、もともと医療ミスはあったけれどもニュースとして報道されなかったのかは分からぬが、私の知人も何年か前、ある有名な大学病院であと1か月もすれば退院といっていたのが、なかなか退院できないと思っていたら不意に死んでしまった。院内感染で、病院に殺されたようなものという遺族の言葉を聞いたことがある。

 アメリカ人は日本で病気にかかるとすぐに本国へ戻ってしまう。日本の医術や病院が信頼できないからだそうである。かつてインドネシアに長く逗留したときも、日本人の間でしばしば同じことを聞いた。「こんなところで入院したり手術を受けたりするのは怖い」というのである。それでなくても湿気が多くて、気温の高い熱帯で、家族連れの商社員たちはいつも、子どもが病気にかかりはせぬかと戦々恐々としていた。

 在日外国人が日本に対しても同じような見方をしているのかと思うと、まことに残念である。

  

 最近読んだ本のひとつ『民と官』(講談社、99年1月刊)の中で、水野清氏が「意識がいちばん遅れているのは大学、弁護士会、医師会、農協、マスコミですね。こういう業界は独善的で、まだ自分たちのお城を守っていけると思っているわけです」と語っている。

 そういわれて気がつくのは、政治家は政治改革、官僚は行政改革や規制緩和、金融界は金融ビッグバンによって、わずかながらも改革が進んできた。政治家や官僚をめぐる贈収賄事件や、官官接待なども一と頃にくらべるとやや減少したかと思われるし、それはまずいという意識はかなり広まってきたと見ていいであろう。

 それに反して最近は医療ミスと弁護士の不祥事が目立つ。昔から医師や弁護士は知識や技能水準が高いと同時に人格的にも高潔とされた。したがって、やっている内容にミスはなく、不正や悪事を働くこともないので、第三者が介入したり、監視や監督の必要はないということになっていた。しかし、どうやらそうではないことがほの見えてきたのである。

 

 2月末の臓器移植については、脳死判定の経過を公表せよという要求が強い。私は先日まで、医師にまかせておけばそんな必要はないと考えていた。そのことは本頁でも医学上の知識もない野次馬が騒ぐべきではないと書いたところだが、その前提にあるのは言うまでもなく、医師や病院が信頼に足る仕事をしてくれることである。

 ところが、いざ経過が発表されてみると、脳死判定の手順を誤っていたことが明らかになった。しかも、なぜ順序を誤ったのか、誰が判定処置をしたのかといったことは発表されないままである。これでは医者や病院に対する信頼が喪われるのは当然であろう。

 このままでは、次の臓器移植でも再び三度びマスコミが騒ぐに違いない。それ以前にわれわれ自身、自分が病気になったときも、安心して医師や病院に身をまかせられないではないか。

 医師会も弁護士会も、今後いかにして信頼を回復するつもりなのか。そんな状態で臓器移植を続けて行くことができるのか。

 

 実は、この問題に対する解答のひとつは『この国の失敗の本質』(柳田邦男著、講談社、98年12月刊)に見ることができる。この本の中で、著者は次のように書いている。「航空事故の場合、独立の調査機関として航空事故調査委員会があり、技術的な調査分析をする仕組みになっている。しかし医療事故に関してはそういう公的な調査機関がない」

「医療界は数々の医療事故を起こしながら、閉鎖的な対応を何十年も続けてきた。その結果、教訓が活かされずに、同じような事故が何度となく繰り返されてきた」「航空会社などが安全対策担当の部門を設置して、組織的に事故防止に取り組んでいるのに対し、医療機関はそういう組織的な取り組みをしてこなかった」と。

 まことに事故は個人の力で防ぐことはできない。常にどんなところでも起こり得ることを前提に、組織的な防止対策を講じておかなければ恐ろしい結果を招く。医師や医療機関が、弁護士も同じだが、技能的にも道義的にも至高かつ高潔であるとか、ミスや間違いは起こさないなどということを前提にしている限り、同じような事故や不祥事はこれからも絶えないであろう。

(西川渉、99.3.22)

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