<ATR旅客機>

クリーン飛行をめざして

――ジェットからターボプロップへ―― 

 

 ヴァージン・グループのリチャード・ブランソン会長が刺激的な言葉を吐いている。去る7月4日付の朝日新聞紙上だが、「航空事業は汚いビジネス」というのだ。大量のジェット燃料を使うからで、同じように鉄道も汚いし、自動車も同様。もし政府が自動車産業に財政支援をするのなら環境にやさしい車だけにすべきだとも主張し、「ヴァージン航空は5年以内にクリーン燃料で飛ぶ世界初の航空会社になる」と語る。

 今や地球環境問題は人類最大の課題となった。世界のエネルギー消費量は着実に増えており、その中に占める航空機の燃料消費も、むろん自動車にくらべて遙かに少ないが、決して無視することはできない。世界の主要エアラインの多くが、有害物質を排出しないエネルギー源に向かいつつあり、そのためのバイオ燃料の開発などさまざまな試みが進んでいる。

 そうした環境問題の中で、600km以下の近距離であればターボプロップの方がジェットよりも環境にやさしく、したがって経済的でもあるというのが、ATR社の主張である。たとえば燃料消費量や有害物質の排出量は、同クラスのリージョナルジェットにくらべて5割減となり、競合するターボプロップ機に対しても3割減になるというのだ。

 以下、そのもようを具体的に見てゆこう。

ATRまもなく1千機

 ATRは1980年代後半から50席クラスと70席クラスのターボプロップ旅客機をつくってきた。ところが10年ほどたった90年代後半、リージョナルジェットの頭文字をとって「RJ革命」と呼ばれる変化が起こり、小型ジェット旅客機が急速に伸びた。1990年に世界中で78機だったものが、5年後の2000年には569機となり、今では1,000機以上が就航している。

 大きさは50席クラスと70席クラス。機体が小さくとも経済性は高いというのがジェット・メーカーの主張で、速くて快適という乗客の選好性にも適合する。

 このRJ革命によって、ターボプロップ機の売れ行きはじりじりと後退し、ATR機も2005年1月には受注残が10機まで減少、同機の生産もこれで終焉かと思われた。特に50席クラスのターボプロップは甚だしい打撃を受け、競争相手のボンバーディア・ダッシュ8などは50席機の製造をやめてしまったほどである。

 しかし、その後ATR機の生産は徐々に回復、2005年に15機だった引渡し数は、06年に24機、07年に44機となり。08年には55機まで伸びた。受注残も2009年6月現在170機まで回復している。ちなみにATR創業以来の受注数は998機となり、まもなく1,000機を超える見こみだ。

 このようなATR機の躍進は、快適性、経済性、環境性の3拍子がそろった結果にほかならない。

 その3つの要素を、いっそう明確に具体化するのが目下開発中のATR-600である。念のために現在は50席クラスのATR42-500と70席クラスのATR72-500を生産中だが、これに最新の技術を加え、座席数は変えずに質的な改良をはかるのがATR42-600とATR72-600。両者合わせてATR-600と呼んでいる。

 ATR-600は2007年11月に開発計画が発表され、08年末から地上試運転を開始、09年7月中に初飛行したはず。本稿執筆の時点ではまだだが、本誌発売の頃には飛んでいるだろう。受注数も162機に達している。


ATR72-600は2009年7月24日に初飛行した
ATR42-600が飛ぶのは2010年の予定

新ATR-600の特徴

 ATR-600のエンジンはPW127Mが2基。現用-500に装備されているPW127E/Fよりも5%ほど出力が大きく、ATR機としては高温高地性能が向上する。標高1,600m、すなわち1マイルの高地にあるのでマイル・ハイと呼ばれるデンバーでも、-500にくらべて乗客が5人増となる。あるいは同じ乗客数ならば航続距離が400km余り伸びる。

 さらに離着陸性能が向上し、滑走距離が短くてすむ。たとえばロンドン・シティ空港のような900mの滑走路からでも、乗客70人を乗せて離陸、パリやアムステルダムを含む550kmの区間を飛ぶことができる。

 また、-600はペイロードが増え、乗客1人あたりの燃料消費が改善されて、CO2排出量は1人あたり車なみに下がる。たとえば50席の42-600は100km区間で1席あたりのCO2排出量が8.8kg、74席の72-600は6,3kgしかない。

 操縦席は、最新のグラス・コクピット。6×8インチの液晶画面が左右に2面ずつと、中央のエンジン用表示画面を合わせて5面。エアバスA380超巨人機のそれと同じ最新の技術を採り入れている。

 たとえば計器着陸能力はカテゴリー3Aの自動着陸が可能。カテゴリー3Aとは、3Bの雲高ゼロ、視程ゼロほどではないが、雲高50〜100フィート、滑走路視程600フィートという悪条件で、それでも自動着陸が可能ということである。

 キャビンの内装について、ATR社は「エレガンス」と表現している。インテリアや座席がイタリアのデザイナーによって洗練されたばかりでなく、LED(発光ダイオード)を光源とする照明を採用、機内の電力消費量や発熱量を減らし、故障が少なくて寿命が長く、小さくて軽量という特徴をもつ。乗客も身の周りの照明をこまかく調節することができる。

 キャビン内部の騒音は-500よりも2デシベル少ない77デシベルになり、振動も軽減する。

 こうしたATR-600は初飛行から1年間ほどで、合わせて220時間の試験飛行をおこなう。うち150時間をATR72-600で、50時間をATR42-600で飛ぶ。そして2010年後半には型式証明が取得できる見こみである。

90席クラスの開発も

 ATR社の開発意欲は-600にとどまらない。次は90席クラスの構想が検討されている。詳細は未定だが、同機はATR72-600のストレッチ型というよりも、むしろ新世代機としてあらためて開発される可能性が高い。

 いずれにせよ、同クラスのターボプロップやジェットにくらべて経済的であるばかりでなく、大気汚染が少なく、乗客にとっては快適な乗り心地をめざすことになる。

 エンジンも最新のギアド・ターボファン(GTF)と同じ原理を取り入れたターボプロップを採用するかもしれない。

 この開発構想の背景にあるのは、市場の動向である。ひとつはターボプロップ機の需要が衰えを見せないことで、この3年間に売れたリージョナル旅客機は6割以上がターボプロップ機であった。もとより経済的で環境にやさしいためだが、乗客の乗り心地もジェットと変わらず、600km以下の路線であれば目的地までの所要時間もほとんど差がないからである。

 将来の需要も、ATRの予測によれば、今後20年間に世界中で2,900機のターボプロップが売れるという。そのうち500機は50席クラス、1,400機以上が70席クラス、そして約1,000機が90席クラスになる。事実、現在ATR機を使っているエアラインからも、もっと大きなターボプロップ機が欲しいという声がATR社に寄せられている。

 そこで、こうしたATR機を使いながら、如何にして燃料消費を減らし、経済性を高め、環境保護を進めてゆくかを考えてみよう。

 航空機の運航にかかる経費は、大きく固定費と変動費から成る。固定費は人件費、機体償却費、保険料、施設の賃借料など、飛んでも飛ばなくてもかかる費用で、これを割安にするにはできるだけ頻繁に飛ぶ方がよい。つまり航空機は地上にじっとしていても経費がかかるのである。

 しかし当然のことながら、飛べば飛んだで変動費が加わる。燃料費、整備費、乗員の飛行手当などだが、そこで飛ぶにあたっては、これらの費用ができるだけ少なくてすむようにしなければならない。

燃料消費削減の方策

 変動費を減らす第1歩は燃料節約である。燃料の消費量を減らせば、費用が節約になるばかりでなく、環境の悪化を防ぐこともできる。それには的確な飛行計画がなければならない。

 たとえば、一定区間を飛ぶ定期便で、乗客数が決まったならば、その搭載量に合わせて、離陸、上昇、巡航、降下、進入に必要な燃料量を計算する。この計算には当然、そのときの気温、気圧、風向、風速などの気象条件を加味しなければならない。ATRには、これらの計算をするためのコンピューター・ソフトが準備されているので、容易かつ正確に算出することができる。

 これらの計算にあたって、飛行計画は燃料消費ができるだけ少なくてすむように立案する必要がある。たとえば急上昇を避ける、巡航高度はなるべく高く取る、そして進入速度はATR機の場合200ノットまで下げるのが望ましい。

 地上でも、できるだけエンジンを使わず、停留中は地上電源を使用し、滑走路と乗降ランプとの間の移動も最短距離を走行する。無駄に長々と滑走路を走る必要はない。

 巡航飛行は雲高や気象条件によって高度や速度を調節しなければならないが、たとえば高度を18,000フィートから23,000フィートに上げるだけで、899kgの燃料が必要な区間で56kgが節約される。

 この場合、高度を5,000フィート上げたために飛行時間は2分ほど伸びる。けれども、燃料節約効果の方が大きい。したがって経済的に有効であるばかりでなく、大気汚染も少なくなるし、乗客の快適性も増す。第三者から見た航空会社のイメージも良くなるであろう。

 第4に整備作業にあたっては、機体をできるだけ綺麗に洗浄する。空力的にクリーンな機体は余分な抵抗が少なく、燃料消費も少なくてすむのである。

 かくてATR機は、今の72-500で550kmの区間を飛ぶ場合でも、他の競合機に対して乗客1人あたりの燃料消費量は35%減となる。

アメリカ市場をめざして

 こうした特性を持つATR機だが、世界中ではどのくらい使われているのだろうか。

 ATRはもともとヨーロッパのメーカーである。フランスやドイツを中心とするEADSとイタリア・アレニア社(フィンメカニカ・グループ)との合弁で、製造工場は南仏ツールーズ空港の一角にあり、エアバス社に隣接する。

 ここで生まれたATR機は、これまでに1,000機近い注文を受け、およそ830機が世界中で飛んでいる。そのうち半分以上がアジア太平洋地域、3割がヨーロッパ、残りがアメリカとアフリカである。つまりATR機はアメリカの航空界では比較的少ない。それだけにまた、今後の大きな市場目標にもなっている。

 アメリカのリージョナル航空界を見わたすと、ターボプロップ機は880機で、全体の31%しかない。リージョナルジェットが多いということだが、最近は経済危機のために乗客が減り、燃料費が上がって経費がかさむようになった。そのため650km以下の近距離路線からは、50席クラスの小型ジェットを引き揚げる動きがある。これに伴いアメリカでは、この3年間に250機のリージョナルジェットが運航を取りやめ、地上に係留されたままとなってしまった。

 しかし実は、それに代わるべきターボプロップ機も、老朽化したものが多い。上の880機のうち約350機が製造後20年以上の機体で、ジェットの代わりどころか、自らも引退の時期にきている。

 しかるに50席クラスのターボプロップ機はATR42だけ。したがってジェット機が使われている路線の採算性を確保するにも、また老朽化した小型ターボプロップの代替機としても、ATR42の今後の可能性は高いと見てよいであろう。

羽田や関空への就航も

 ATR機は何故か、日本では1機も飛んでいない。コミューター航空、もしくは地域航空と呼ばれる航空会社は全国に11社存在するが、使用機はほとんどカナダ・ボンバーディア社のダッシュ8ターボプロップ機で、これにスウェーデンのサーブ・ターボプロップ機と多少のリージョナルジェットが加わる。

 総数は70機を超え、乗客数は年間500万人余というから、決して小さな数字ではない。それでも従来、ATR機を採用する航空会社はなかった。

 しかし、ここにきて少しずつチャンスは増えているかに見える。ひとつは経済不況と燃料高騰の影響を受けた航空路線の採算性である。いま明らかになっているだけでも、たとえば関西空港で発着する路線が採算に合わないとして、何本か今年秋から運休になるらしい。高知、松山、鹿児島などへ飛ぶ路線だが、これらは300〜600kmの範囲内にある。

 このくらいの区間ならば、ATR機は競合機にくらべても飛行時間差は10分以下だし、所要燃料は7割以下ですむ。採算性は大きく上がるであろう。むろん環境面からも、その方が望ましい。

 さらに今後、旅客需要に見合った航空機を導入しようとする場合、乗客の少ない路線ならば、50席クラスの小型旅客機はATR42しかない。前述したように競合機が生産をやめたからである。

 いま羽田空港では拡張工事が進んでいる。これによって来年10月、4本目の「D滑走路」が完成する予定だが、そうなると年間11万便の増加が可能となり、羽田から地方空港への増便や路線の新設も計画されるであろう。そんなとき区間距離や旅客需要を考えるならば、ジェット旅客機ばかりが使われるとは限らない。

 むしろ、せまい日本の国内線ならば、採算性や環境性を考えてもターボプロップ機の方が適するという場合が多いのではないか。ATR機の登場するチャンスも増えるであろう。

 乗客にとってもATR-600の快適性はきわめて高い。そのうえ乗降ドアが機体前方左側にもつくので、今のジェット旅客機用のボーディング・ブリッジがそのまま使える。

 ターボプロップは地域航空の最も基本的な航空機である。特に最近の航空機は技術の進歩によって飛行性能が向上しただけでなく、快適性、経済性、環境性もジェットを凌ぐようになった。

 ATR機が日本の路線に就航するのも、決して遠い先のことではないであろう。

(西川 渉、月刊『エアワールド』誌、2009年10月号掲載)

【関連頁】

 環境問題の解消に挑む(2008.7.1)

 飛躍のときを迎えたATR(2005.2.1)

 

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