FAAの防災ヘリコプター事例研究

――その3 空港事故とヘリコプター――

 

 FAAは空港で起こった航空事故の際に、ヘリコプターがどんな役割を果たしたか、また果たさなかったか、2件の実例を取り上げて『防災ヘリコプター・マニュアル』の資料にするため調査している。結果として、一つはうまくいった事例、もうひとつは役に立たなかった事例となった。

 

クラッシュ20秒後にヘリコプターが飛来

 前回のポトマック川の事故は大きな悲劇に終わったが、次は危機管理体制がうまく機能した例である。

 1989年7月19日午後3時過ぎ、デンバーからシカゴへ向かったユナイテッド航空DC-10が、尾部の第3エンジンのファンが吹き飛ぶという事故に見舞われた。離陸からほぼ1時間後、高度は37,000フィートであった。エンジン部品はカウリングの外へ飛び出し、右水平尾翼に突き刺ささり、操縦系統を動かす3本の油圧系統のすべてを破損してしまった。

 あとはスロットルを操作し、エンジン出力を加減しながら操縦しなければならない。機長は直ちに緊急事態の発生を通報し、最寄りのアイオワ州スーシティ空港に着陸することになった。この空港は民間航空とアイオワ州兵の共用飛行場である。したがって緊急事態に対応する消防や救急は州兵部隊がおこなうことになっていた。

 空港には緊急対応計画(AEP : Airport Emergency Plan)があり、FAAの承認を受けていた。内容は航空事故に対応すべき機関の任務と責任、通信連絡の方法、医療機関、訓練方法などである。このマニュアルにしたがって、空港の消防責任者は3時25分頃、緊急通報を受け取った。同様に医療機関も通報を受け、かねて訓練していた手順にしたがって準備をととのえた。消防責任者は消防車4台と救急車1台を準備すると共に、スーシティの消防署にも通報して消防車4台と救急車1台の待機を依頼した。

 これらの緊急準備がととのったのは、事故機が空港に入ってくる7分ほど前であった。待機の態勢に入った人員は消防士40〜50人、ボランティア50人で、ほかに救急医療チームがあった。

 ところがDC-10は、着陸の直前になって、こまかい操縦が不能になり、指定されたランウェイ31に回り込むことができないとして、突如ランウェイ22に降りることになった。この滑走路は路面の一部が破損していて修理ができていなかったが、DC-10は無理矢理そこに降りてきたのである。

 そして機が滑走路に接地した途端、突然右主翼が地面を叩き、機首が下がってもんどり打った。機体は大きく三つに分断され、火を噴きながら飛び散って、乗っていた296人のうち110人が死亡した。死亡者の大半は前方ファーストクラスの乗客と最後部の乗客だった。胴体の中央部分はさかさまになったまま、滑走路の横のトウモロコシ畑に突っ込んだが、内部の乗客はほとんど生き残った。

 機体は激しく燃え上がり、下火になるまでに45分を要し、完全消火には2時間かかった。しかし胴体がばらばらになったために、生存者の脱出は比較的容易であった。救急隊は怪我をした乗客たちを直ちに二つの病院へ収容した。病院に入ったのは196人で、大多数は手当を受けたのち病院を出ることができた。しかし10人は重態で、のちに死亡した。

 この事故では、ヘリコプターの働きもめざましかった。DC-10がクラッシュしてから20秒後には、もうマリアン病院に所属するBK-117A-1救急機が現場上空にいた。20秒とは、20分のミスタイプではない。このヘリコプターは防災規定にしたがって、空港の一隅でホバリング待機をしていたのである。そして30分以内に病院との間を3往復し、5人の重傷者を搬送した。

 最終的に、この事故に駆けつけたヘリコプターは全部で13機になった。うち4機は病院からの救急専用機、8機は州兵所属のベルUH-1、もう1機は地元の自家用機で、犠牲者のありかを空から探して地上の救援作業を助けた。

 

なぜ多数の人命を救うことができたか

 かくて、スーシティ空港の事故で命を取り留めた186人の生存者は、実はこの地域の危機管理のおかげであった。しっかりした防災計画ができていて、それを机上の作文に終わらせないために、毎年繰り返し、さまざまな災害を想定して訓練を重ねてきたからで、航空事故もその中に含まれていた。

 たとえば空港の片隅に救急ヘリコプターの待機スポットが定められていて、ユナイテッド航空のような緊急着陸に際しては、ヘリコプターがホバリング待機をすることになっていた。病院の方でも、事故が起こる前から受け入れ準備をととのえていたのである。

 そのため、いざ事故が起こってから怪我人が手当をうけるまでの時間は非常に早かった。それが重傷者が多いにもかかわらず、生存者が多かった理由なのである。着陸失敗による航空事故の場合、機内からの脱出が問題になることは多いが、脱出した人にはしばしば火傷や外傷が伴う。そういう人をいかに早く病院に送りこむかが生死の分かれ目になるのである。

 さらにスーシティ空港は州兵が駐留していたため、小さな地方空港の割には消防車などの防火施設が充実していた。これも生存者の多い理由である。このことがあってから、この空港には全米から多くの空港関係者がやってきて、災害対策を勉強していった。

 

事故を知ったのは25分後

 しかし、スーシティの事故からわずか2か月後に起こったニューヨーク・ラガーディア空港の事故は、今度は対応が良くなかった例として、やはりFAAの事例調査の対象となっている。

 1989年9月20日夜11時22分頃、USエアのボーイング737-400旅客機がラガーディア空港を離陸しようとして、滑走中に離陸を断念、停止しようとしたけれども、滑走路をオーバーランしてしまった。そのため同機は空港の着陸灯を支える柱に機首をぶつけ、胴体は大きく三つに分解して、一部はイーストリバーに沈んだ。機内には乗客57人、乗員6人が乗っており、そのうち2人が死亡した。

 にもかかわらず防災計画の不備から、事故現場は混乱した。事故機の一部が水につかったため、救援隊はゴムボートを投げこんだ。しかし、それに乗り込もうとした人の眼鏡がボートに突き刺さり、内部の空気が漏れてボートが沈むという一種の二次災害まで起こしてしまった。

 そもそも、FAAの承認したラガーディア空港の危機管理計画では、水中の事故は沿岸警備隊(USCG:コーストガード)が救助に当たることになっていた。ところがUSCGが事故を知ったのは25分後であった。警備隊のオフィスへたまたまやってきたニューヨーク市警の警官が口にしたのを聞いて、それを知ったのである。

 遅ればせながら現場に到着したコーストガードのヘリコプターが救出したのは1人だけであった。事故機に乗っていた男性客室乗務員の1人である。この人は、沿岸警備隊のHH-65で水中から引き上げられ、空港警察本部へ運ばれた。このとき別の1機は上空高いところでホバリングをしながらサーチライトで現場を照らしていた。

 その後、さらにUSCG機は赤外線探知器を装備して、行方不明の機長がイーストリバーにいないかどうかを捜索した。しかし機長はとっくの昔に現場から立ち去っていたことが判明し、捜索を打ち切った。

日本の空港事故対策は? 

 空港での事故は、最近の日本でも記憶に新しい2件がある。ひとつは1994年4月26日午後8時16分、名古屋空港で起こった中華航空A300-600Rの着陸失敗、もしくは復行失敗による事故である。乗っていた271人のうち264人が死亡した。

 もうひとつは1996年6月13日午後0時8分、福岡空港を離陸しようとしたガルーダ航空のDC-10が、離陸を断念して滑走路をオーバーランし、道路を突っ切って停まった事故である。3人が死亡し、113人が重軽傷を負った。

 いずれも救助のためのヘリコプターが飛んだ様子はない。前者は夜だったから、ひとまず置くとしても、後者は真っ昼間の出来事で天候も良かった。にもかかわらず怪我人は救急車で病院へ運ばれたのであろう。

 しかし今後、こうした事故が起こった場合、依然として救急車だけに頼るつもりであろうか。むろんヘリコプターを使うには、先ず病院側にそれを受け入れるための着陸施設がなければならない。そのうえで空港の事故対策や危機管理計画の中にヘリコプターを組み入れることになるわけだが、そういうことは考えられているのだろうか。

 空港における航空事故は、一挙に100人を超える死傷者が出る。空港の中の小さな診療所や少数の医療スタッフでは、何百人という怪我人に対応することはできない。離れた病院へ急いで運ぶ必要も出てくる。

 名古屋空港の事故のあと、同空港はもとより、わが国の多くの空港で事故対策の見直しがおこなわれたという。その中にヘリコプターを組み入れた空港はあるのだろうか。

 (西川渉、98.9.28)

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