FAAの防災ヘリコプター事例研究

――その4 ブリザードと大洪水――

病院ヘリポートの発端

 米国北東部で3日間にわたって吹き荒れた猛吹雪(ブリザード)に際して、ヘリコプターは如何なる働きをしたか。

 1978年2月3日金曜日、アメリカ東部は高気圧におおわれ、おだやかな冬の日がつづいていた。唯一、気象の変化のきざしがあったとすれば、それははるか西方、カナダとの国境近くに弱い低気圧が生まれたことだった。東部海岸の気象は日曜日の夜まではほとんど変らなかった。しかし、この頃から弱い低気圧の中心が五大湖を通って移動をはじめ、そこからゆっくりと寒冷前線が大西洋岸へ延びはじめた。やがてアパラチア山中では数インチの降雪が見られた。もっとも、それとても嵐というにはほど遠いものであった。

 だが2月5日深夜になって低気圧は急速に発達し、ノースカロライナ州の最東端に突き出したハッテラス岬でブリザードが吹いた。それから雪あらしは北東方向へ移動を開始、2月6日正午までにデラウェア、メリーランド、バージニアの各州を襲った。暴風雪の勢力はますます大きくなり、風力はハリケーンと同じ程度にまで強くなって、同日午後6時にはニュージャージーの海岸までゆっくりと移動していった。

 その後24時間、ブリザードは勢力を保ったままニュージャージーの海岸に沿って、ロングアイランド、ニューヨーク、ロードアイランドを通過、2月7日午後6時にはナンタケットの付近にあった。それから海上に出ると急に足を速めて、7日深夜から8日の明け方にかけて大西洋上に遠ざかった。

 この1978年の「ノースイースト・ブリザード」は今世紀最悪の暴風雪といわれる。2月5日から7日にかけて、東部海岸沿いに毎秒25mの暴風が吹き荒れ、そのために岸壁は崩れ落ち、建物を吹き倒し、砂丘を突き崩した。死者は99人、負傷者4,587人に及び、1,700世帯以上の住宅が倒壊した。

 ブリザードは大量の降雪、強風、低温を伴う暴風である。そのため積雪は飛雪となって、大きな吹き溜まりをつくるが、このときも高さ5〜6mの雪の壁が各地にできて、交通は途絶した。ニューヨークやボストンなどの大都市でも、車は路上で立ち往生し、交通事故や自動車強盗が頻発した。もとより空港は閉鎖され、鉄道も走れなくなった。

 特に問題となったのは医療機関である。医師や看護婦は病院に出れらなくなり、患者も病院へ行けなくなった。嵐が過ぎてから数日間、交通手段は四輪駆動車、大型除雪車、スノウモービルなどがごく短かい距離をのろのろと移動できるだけとなった。

 あとはヘリコプターだけが唯一の頼りであった。そのためロードアイランド、マサチュセッツ、コネティカットの3州は緊急事態を宣言し、緊急車両以外の交通を禁止、州兵と警察のヘリコプターが食糧、燃料、急病人の輸送に当たった。

 しかしヘリコプターといえども充分な働きができたわけではない。というのはヘリポートが少なかったからである。特に急病人を受け入れるべき病院にヘリポートがなかった。やむを得ず大きな駐車場が使われたりしたが、そこへ定期的な治療を受けなければ命が危ない血液病の小児、急に陣痛がはじまった妊婦、ピンを呑みこんだ女の子などをのせて大小さまざまなヘリコプターが飛来した。

 しかしヘリポートをもたず、しかもヘリコプターの着陸できる場所のない病院は全くお手上げだった。ヘリコプターの着陸場所を確保するだけでも何時間もかかり、急患輸送には大変な苦労があった。病院に降りられないようなときは、別の場所から患者のもとへ医療器械をヘリコプターで運ぶといったこともおこなわれた。

 こうした救急搬送に当ったヘリコプターの活動は、着陸できる場所が少なかったためにきわめて限られたものとなった。実は1978年の当時、ヘリポートを有する病院は米国でもほとんどなかったのである。したがって地上交通が途絶した場合、ヘリコプターを代わりに使うといった考えは必ずしも現実的ではなかった。

 だが逆に、着陸の場所さえあれば、特に急病人の輸送にはヘリコプターはきわめて有効であることが人びとに認識された。そのときから米国では病院ヘリポートの整備が進み、現在では1,100か所以上の病院が恒久的なヘリポートをもつようになったのである。

北部カリフォルニアの大洪水

 雪嵐の次は洪水とヘリコプターの問題である。1986年2月12日から9日間、一連の激しい嵐がカリフォルニア州北部を繰り返し襲った。その結果、ロシア川の水かさが大きくふくれ上がり、ついに溢れ出して、流域の町や村が押し流された。住宅をなくした人は5万人に上り、死者は15人になった。

 大洪水から逃れるにはヘリコプターが必要だった。激しい濁流はボートによる救出を不可能にしてしまったからで、救出した怪我人を大急ぎで病院へ搬送するにも救急車は役に立たなかった。

 そこでロシア川の洪水には、カリフォルニア州兵の空軍と陸軍のヘリコプターや多数の民間ヘリコプターが出動し、濁流の中に取り残された人びとの救出に当たった。

 全体の指揮を執ったのは、空港近くに設けられた陸軍と空軍の共同司令部である。つまり別々の機関から派遣されたヘリコプターが、統合指揮のもとで行動したのである。このとき、空軍のC-130輸送機は常に救援機の上空にいて、ヘリコプターの連絡通信を中継した。

 ヘリコプターの中でシコルスキーHH-3は救難用のホイストを装備し、2人の救助隊員をのせていた。このヘリコプターは正確な捜索飛行をおこない、確実に人を救出した。

 UH-1は医療器具を搭載していて、応急手当をした。チヌークは一時に30人の人をのせて安全な場所へ輸送し、ときには連絡用のジープその他の重量物を吊り下げ輸送した。警察ヘリコプターは、夜間は2機ひと組で行動した。1機が救出作業をしている間、もう1機が上空にいて探照灯で現場を照らすのである。

 こうして最終的に2,400人以上の人びとがヘリコプターで救出された。この成功は、全機が災害本部の指示にしたがって、協調しながら動いたことによる。

 なお、日本でも1959年(昭和34年)10月、伊勢湾台風で約5,000人がヘリコプターで救出された。救出に当たったのは、米軍のヘリコプターと発足間もない自衛隊のヘリコプターである。このときの死亡者は、ヘリコプターで救われた人数とほぼ同数の約5,000人であった。したがって、もしもヘリコプターがなければ犠牲者の数は倍増していたかもしれない。

 詳しくは本頁内の「二つの大量救出活動」をご参照いただきたい。

 

(西川渉、98.10.8)

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