命は惜しし

  

 最近、フグ毒研究の第一人者、野口玉雄さんの話を聞く機会があった。この先生は、実は私の大学教養課程におけるクラスメートでもある。

 話を聞いていて大いに興味をそそられた理由は、今年の初め、まだ寒い時期に旧友伊達直哉さんのご案内で、アメリカの救急専門医ケビン・ハットン先生とフグを食べたときのことと重なり合ったからである。

 日本人としては当然のことだろうが、フグを食べるのに毒のことなどは余り気にしない。どちらかと言えば財布を気にしながら食べるわけだが、このときは外国人が相手で、しかも「生まれて初めての経験」とか「ダイジョーブ?」などと言いながら刺身の一切れをつまみ上げ、口に持ってゆく前にしげしげと眺めるといった具合だったので、こちらもついフグの危険性の方へ話題が移っていった。

 このドクターの話を聞いていると、アメリカではフグ食は禁じられており、したがって輸入も禁止だそうである。だから自分では食べたことはないけれども、フグ中毒の緊急治療は経験があるとかで、患者の苦悶の様子を真似て見せたりした。サンディエゴ在住の医師だから、あの辺の海で獲れたフグを勝手に料理した人がいたのかもしれない。

 フグの猛毒は、アメリカではロシアン・ルーレットにもたとえられる。つまり、いつ当たるかは分からないが、いつかは必ず当たるというのである。したがって、その危険を冒してフグを食べた経験というのは、本人にとっては自慢のタネになるらしい。大いに度胸があるというわけだが、それだけに他人から見れば無鉄砲なヤツというのでバカにもされる。

 日本でも大阪あたりでは鉄砲にたとえられる。当たれば死ぬというわけで、フグチリはテッチリとも呼ばれることはご存知の通り。たしかに毎年、死人が出るようだから油断をしてはならない。ドクターも「最初にして最後」などといいながら、さっき秋葉原で買ったばかりのデジタル・カメラで自分の記念写真を撮りながら「明朝はちゃんと目が覚めるように祈っておこう」などと、日本酒の酔いもまわってご機嫌であった。

 野口さんの話を聞いたのはその2ヶ月ほど後だが、もっと詳しく反芻するために『フグはなぜ毒をもつのか』(野口玉雄著、NHKブックス、1996年)を読んだ。それによると、フグを食べるのは、日本のほかは中国、台湾、韓国、シンガポール、タイくらいらしい。欧米人がこれを忌避するのは、その猛毒によってよほど痛い目に遭ったにちがいない。なにしろフグの中毒には4千年の悲惨な歴史があるのだ。

 しかし、毒を取り除けばこんなにうまいものはなくて、それだけに高価である。野口さんも「フグの肝は大変おいしい。これはやみつきになるから、命が惜しい人は絶対に食べないほうがよい」と書いている。読者は、食べていいのか悪いのか、おあずけを食ったような気になるのではないか。

 とにかくフグの毒は恐ろしい。「唇、舌端のしびれにはじまり、指先のしびれが続く。頭痛、腹痛、腕痛などを伴う。歩行は千鳥足となり、激しい嘔吐が続く。まもなく運動不能となり、横臥する。知覚マヒ、言語障害が著明になり、呼吸困難が現れる。血圧が下降し、チアノーゼが著しく、嚥下不能となり、反射も消失する。心臓は呼吸停止後もしばらく博動を続けるが、やがて静止し死に至る」

 しかし、これに対する解毒剤はないらしい。私は毒ヘビに対する血清のようなものがあるのかと思っていたが、そんなものはない。最後は呼吸マヒなので、今のところ人工呼吸が唯一の治療法という。「気道を確保すれば大丈夫」という話もあって、それならば救急医が始終やっていることだから、あの米人ドクターもお手のものだったに違いない。

 野口さんからは後で「フグの無毒化技術による安心・安全な伝統食品フグ肝の復活への道」(食衛誌、2004年12月)という論文をいただいた。これも「たいへん美味なフグ肝は……」という書き出しで始まる。つまり、読者に先ず生つばを呑みこませておいて、それからフグ毒の危険を説き、しかしこうやれば安全なフグができるので水産業も盛んになり、地域の活性化をうながし、日本経済の発展につながるという結論まで持ってゆく、まことに巧妙かつ壮大な構成の論文であった。

 どうすればフグ毒(テトロドトキシン:tetrodotoxin:TTX)がなくなるか。実はフグは自ら体内で毒をつくるわけではない。外界から貝やカニ、ヒトデなどを食べてTTXを取り込むのだそうである。さらに、これらの貝やヒトデも小動物を食べてTTXを摂り入れる。その小動物は海底の泥の中から摂り入れる。泥の中のTTXは細菌類がつくる、というような食物連鎖になっている。

 では、何のためにフグは毒を体内に蓄積するのか。外敵に襲われたときに体をふくらませ、うろこを逆立てると同時に、皮膚の表面に毒をにじみ出させて身を守るためである。卵巣に毒が多いのも、大切な卵を外敵から守るためらしい。


敵に襲われたフグの威嚇

 そこで、フグがTTXを含んだ餌を食べないようにして養殖すれば、無毒のフグができる。TTXは海水中にも溶けているので、実際には人工の海水をつくって陸上の水槽で養殖するなど、大変な手間と費用がかかって難しいそうだが、理論的には可能である。それが実現すれば、フグ肝の美味を安心して味わうことができる。したがってフグの需要が増え、水産業者の売上げが増すというのが野口さんの結論である。

 こうしたフグ毒の研究を、野口さんは自ら生体実験の危険に身をさらしながら、40年以上にわたって続けてこられた。フグ毒の脅威とは逆の、無口な学者の地味な努力には、まこと敬意を表さなくてはならない。

 もうひとつ、この人は今上天皇にご進講を申し上げたこともある。陛下ご著書の『日本産魚類大図鑑』(東海大学出版)に野口論文が参考文献として引用されているのも、さこそというべきであろう。

(西川 渉、2006.5.6)

【関連頁】

 命は惜しし追補(2006.5.10)

 フグは当たるが

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