命は惜しし追補

  

 先日、本頁にフグ毒の話を書いたところ、近江に住む弟(麻酔医)から手紙がきた。フグに当たっても気道を確保すれば大丈夫といった、そんな簡単なものではないという注意である。確かに、本頁にはそう書いたので誤解を招くおそれがある。ここに追補を記しておきたい。

 注意書きの要旨は「フグ中毒は基本的には人工呼吸をすればいいといっても、ことはそう単純ではないようです。胃の内容を肺に誤嚥していたりする。フグ毒のテトロドトキシンもなかなか抜けないし、麻酔の筋弛緩薬のような拮抗薬はないので自然に抜けるのを待つしかなく、胃に内容があるのであわてて下手な気管挿管すると大変です」というもの。

 先日の野口玉雄博士の話でも、毒が抜けるまでに8時間ほどかかるということだった。それまでは昔から「目の毒、気の毒、フグの毒」というように、医者でも手のほどこしようがない。そこで死んでしまえば落語に出てくる「らくだ」の馬さんのように、あとはかんかん能でも踊るほかはないが、なんとか8時間もてば完全に回復するらしい。後遺症も何も残らないのだそうである。

 したがってフグ中毒の名医は遙か僻地に住んでいる、という笑い話を野口さんから聞いた。つまり中毒患者を余り早くかつぎこまれても治療法がないので、なるべく遠くにいて、戸板か何かで運んでいる間に死ぬ人は死ぬし、生きながらえた人は丁度うまく蘇生する頃にフグ医のところへ到着する。そこで人工呼吸か何かをやるとケロッと治って、いよいよ名医の評判が高まるというのである。

 ところで弟によれば「九大の医学部薬理学教室はふぐ毒の研究では古い実積をもち、大きなふぐの標本がたくさん陳列してありました。九州近辺の船がだんだん遠くまで魚を追いかけてゆくようになり、有毒か無毒かわからぬ新種のフグが獲れると、薬理の教室に鑑定に持ってくる。そのフグを身体の部位ごとにマウスに食わせたり、注射液にして注射したりして毒性を鑑定し、漁業会社に教えていたとのことです」

 われわれの親父も昭和の初め頃、九大医学部の学生時代からよく薬理に出入りしていたらしい。というのも、フグ毒の鑑定を依頼してくる漁業会社が時どき素性の知れたフグも持ってきてくれるからで、親父は「それをよく喰った」と言っていたとか。

 野口さんも、無毒化の研究から生まれたフグの試食をする話をしていた。ときには命知らずの第三者に参加してもらうこともあるらしく、私は羨ましく思いながらそれを聞いた。親父の場合も、きっと薬理学教室に親しい友だちがいて、「人体実験」のときは連絡をくれたにちがいない。 

(西川 渉、2006.5.10)

【関連頁】

 命は惜しし(2006.5.6)

 フグは当たるが

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