ヘ ン な 話

 

 

 本頁では開設の当初から「防災救急篇」とか「ビジネス航空篇」というように、「篇」の字を使っている。こんなとき、最近は大抵の文書が「防災救急編」とか「ビジネス航空編」のように「編」という文字を使うであろう。

 しかし、これはちょっとおかしいというのが、私の考えであった。本来「編」は編集作業をあらわす文字で、丸谷才一がいろんな評論家の論考を選定し編纂した場合は「丸谷才一編文芸評論集」といった本が出来上がることになる。本頁でも私が編集したリンク集の頁「連関篇」には、わざわざ「西川渉編」と断っている。

 そして「篇」の方は、そのようにして集められた個々のかたまりを指すというのが、私の解釈である。といって、何か漢字の起源や典拠のようなものを知っていたわけではない。編と篇の両文字に対する長年のつきあいから、その使い方を見ていて感じ取っただけの解釈である。

 ところが、私の解釈も当たらずといえども遠からずではないかと思ったのが、高島俊男著『お言葉ですが……「それはさておき」の巻』(文藝春秋、98年1月刊)と『ほめそやしたりくさしたり』(大和書房、98年7月刊)を読んだときであった。著者もよほどこの二文字が気になっているのか、二つの近著で篇と編の違いを論じているのである。

 この中国語学の専門家によると、昔の中国で紙の代わりに使われた竹簡を紐でつないでひとくくりにしたものを篇という。そして、その紐を編といい、さらに「紐を使って書物を編んでゆくことも“編”という」と書いてある。

 つまり、本頁でいえば防災と救急に関する拙文(簡)を集めたのが「防災救急篇」であり、ビジネス航空に関するものを編んだのが「ビジネス航空篇」というわけである。

 しかるに何故、最近の新聞や雑誌は「篇」といわずに「編」というのか。篇の字が当用漢字表に入っていないというきわめて単純な理由からだそうである。その結果、天下の大新聞がいかなる馬鹿げた間違い記事を書いているかといった論議の発展は、高島先生の2著を読んでいただく方がいいであろう。

 とにかく、この人の本は、『本が好き、悪口言うのはもっと好き』以来、非常に面白くて、すっかり取り憑かれてしまった。専門家らしい含蓄を背景にして、ユーモアあふれたエッセイが、たとえば若い女性が「彼」というとき、普通ならばカを高く発音するのに、平らに発音するのは何故か。その両者にはどんな違いがあるかというように展開する。

 私もテレビを見ていて、女性の平らな棒読みの発音がヘンであることは、以前、本頁にも書いたことがある。電車の中などで、そんな奇妙な話し声が聞こえてくると裸足で逃げ出したくなるのである。

 著者は、テレビや新聞雑誌による「言葉狩り」にも腹を立てている。当然である。気違いとか乞食とか女中とか片手落ちとか、何から何まで「不適切表現」や「差別用語」にしてしまっては、誰もが個性のない言葉をしゃべるようになるであろう。第一「気違いに刃物」とか「慌てる乞食は貰いが少ない」などということわざはどうなるのか。いずれ「ホームレスと大学教授は3日やったらやめられぬ」といったことわざができてくるに違いない。

 とにかく当用漢字とか現代仮名遣いとか不適切表現というのは、すべてこれ広義の「言葉狩り」である。こういうことをやっていると言葉が力強さを喪くし、造語力を失い、日本語の豊饒さが衰えてゆく。結果として今のコンピューター用語に見るように、米語をカタカナにしただけの不毛なジャーゴンを意味不明のまま素人も利用しなければならないといった事態に陥るほかはなくなる。このことも私は本頁で何度か書いてきた

 高島先生は、編集者が原稿を直すのにも腹を立てている。その直し方は「かなで書いた所を漢字にしたのが大部分で、逆に漢字をかなにした所、送りがなをふやした所、字を改めた所、語を変えた所などもある」。

 ずいぶん、ほんとうに、りっぱな、ちがうなどと書くのは、漢字を知らないからではなくて、「わたしの書く文章は中国に関するものが多い。人名も書名も地名もみな漢字だから、紙面が黒っぽくなりやすい。それを避けるためにも、また和語はかなのほうが美しいということもあって……特に接続詞、副詞、形容詞など……はなるべくかなで書くようにしている」

 私も、同じ言葉であっても前後の紙面を見ながら、漢字にしたり仮名にしたりする。それを見て編集者の中には、文字を統一してくれなどという人がいるのも確かである。そんなとき著者の場合は一度ならず「寄稿とりやめ。原稿返せ。以後おことわり」といったことになるらしい。

 余談だが、役所の文書も漢字が多い。仮名が多くて締まりのない文章も困ったものだが、漢文かと思うような答申書などは見ただけで読む気をなくしてしまうものである。

 ところで著者は、何処へ行ってもあぐらをかくのが好きらしい。「コーヒー一杯千円もする高級喫茶店に入った時、大きな上等のソファによっこらしょとあぐらをかいたら」、連れの御婦人が「急にうろたえ出して回りを見まわし、顔を赤らめて小さな声で“あぐらはおやめいただけません?”と言った」とか。

 三年前東南アジアへ行ったときも「大阪空港で飛行機に乗りこむとすぐあぐらでおちついた。……ところが見まわりにきたスチュワデスが“あぐらはおやめください”と言う。なぜいけないのか、ときくと“危険でございます”と言う。“……飛行機が落ちる時には、あぐらをかいているのもいないのも五十歩百歩だろう”と正論を展開したが、相手も意外に強情である。ついにかぶとをぬいで足をおろし、姿がすっかり見えなくなってからまた持ちあげた」

「しばらくするとまたまわってきて“あぐらはおやめください”と繰り返す……三度めにまわってきた時は、そっぽをむいて通り過ぎて行った。……“この野郎死ぬなら勝手に死ね”と見はなしたのかもしれない」

 けれども著者は無事「バンコク、クアラルンプル、シンガポールと全部あぐらでまわって、ちゃんと大阪空港にもどってきたのであった」

 私も飛行機の中であぐらをかいてはいけないという規則があるのは知らなかったが、何故いけないのか、理由は未だに分からない。このつぎ飛行機に乗ったらスチュワーデスにきいてみようと思う。

(西川渉、98.9.5)

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