<小言航兵衛>

放射能下に生きる

 ……大災害に襲われた日本人を見て、世界中が驚いたのは、きわめて平静を保っていることだった。心の平静は、人が命運を左右されかねない危機に出会ったとき、正しい道を選ぶための重要な要件でもある。しかし逆に、本当は危機が大きすぎたことによる呆然自失なのかもしれない。とすれば、日本人は今や自分たちを襲った災害が如何に危険で巨大なものか理解できなくなったのではないのか。

 このような呆然自失の日本に対し、目を覚ませという意味で、国際的な批判は今後ますます強まるであろう。現政府の対応は、阪神大震災のときよりはいくらかマシかもしれない。あのときの日本政府はなす術(すべ)を知らず、被災者に対して真っ先に暖かいチキン・スープを振る舞ったのはヤクザの組織であった。これで、日本という国家は無能な政治家によって運営されていることを露呈した。

 そこから市民運動が盛り上がった。カン首相もそうした運動を背景に政権交代を果たし、今の立場に上りつめた。だが現政権も大震災への対応ぶりからすれば大して進歩したようには見えないし、そもそも日本の国家体制がどこかおかしいのではないのか。たとえば福島の原発事故は、原子力業界と政府が国民の目に見えないところで結託していることを暴露してしまった。彼らはグルになって第三者からの疑問や論議を封じこめ、問題点を覆いかくし、原子炉の危険性については楽観的に解釈してきたのである。

 問題の原子力発電所を所有する東京電力も、今回の危機にあたって、これまた無能ぶりをあからさまにした。社長は雲隠れしたままで、さすがのカンも「いったいどうなってんだ」と声を荒げたほどだ。

 そういうカンも、海外から見ていて、首相としての顔はほとんど見えない。閣僚たちも同様である。表面上はうまくいっているように見えたが、実は今の政権は機能不全におちいっているのだろう。

 今回の危機は、日本という国がこれまで長い間、リーダーシップ欠如のままで運営されてきたことを、白日のもとにさらけ出した。今、日本人は為政者に対し正しい怒りを示すべきではあるまいか。…… 

 以上は半月ほど前の英エコノミスト誌の日本に対する論評である。原著はイギリス人らしく筆を抑え、過激な言葉を避けて、礼儀正しく、それでいて皮肉たっぷりに書いてある。航兵衛も見習うべき筆致だが、やや誇張して要約した。

 エコノミスト誌に指摘されるまでもなく、官僚と原子力業界との結託はテレビ画面からも明らかで、相互のやりとりが全く見られない。監督官庁の立場にある安全保安院が、かねて何らかの指示や指導をしていたとすれば、それが適切だったかどうか、適切だったとすれば正しく守られていたかどうか、多少の論議があっていいはず。なぜなら、現に原子炉が壊れて、そこら中に危険がまき散らされているではないか。

 そんな論議もないのは、保安院自体が安全に寄与していなかったことを示すもので、いったい何のための安全保安院なのか。「安」の字を二つも入れた名前を持ちながら、安全については無能で、電力会社と同じレベルでしかものを考えられなかったとすれば、そんな監督官庁は不要である。

 すぐ隣にわずかな被害ですんだ原発もあったという事実からすれば、せめて、それと同程度の安全策を、なぜ問題の原発にも適用するよう指導できなかったのか。電力会社と同じ穴の中で、金がかかりすぎるからやめておこうなどと安全性よりも経済性を優先させるようなムジナ、ではなくて安全官庁は無駄である。このさい廃院にすべきであろう。


核ごみ収集車
(捨て場がないので垂れ流し)

 

 エコノミスト誌は日本政府のリーダーシップがないとか、カンの顔が見えないというが、これは日本民族古来の習性であろう。中西輝政教授がどこかに書いていたが、農耕民族は毎年の季節に合わせて決まりきった畠仕事をくり返していればいい。作物に急激な変化は起こらないからで、ルーティーンの仕事を確実にこなしていれば生活が成り立つのである。

 いっぽうイギリス人などは、今でもハンティングの趣味を高尚と考えるようだが、昔から狩猟民族であった。狩猟は組織を組んでおこなう。その一員としてリーダーだったり、獲物を追い立てる勢子だったり射手だったりする。しかも獲物はいつ何どき何処から跳び出してくるか分からない。その千変万化に対応できず、ぼやぼやしてると逃げられてしまうか、反対にこちらが食い殺されるかもしれない。

 そうした危機への対応能力が、危機管理などという屁理屈を抜きにして、身についているのが狩猟民族であろう。したがって彼らから見れば、農耕民族が危機に立ち向かう姿などはまどろっこしくて仕方がない。まどろっこしいだけならまだいいが、その結果が放射能として我が身に及んでくる恐れがあるとすれば「何をもたもたしてるんだ」と怒りたくなるのは当然。日本に対する批判も強まるであろう。

 為政者でも官僚でも大企業でも、責任ある立場に立つとなれば、日本的農耕民族といえども多少は猟人の性格も必要なのだ。にもかかわらず、たとえば今の政権担当者たちに、そうしたリーダーシップがないというのはどういうことか。

 彼らはかつて全学連や過激派や労働組合や日教組を引っ張ってきたリーダーではなかったのか。そのときのリーダーシップを今こそ発揮すべきだと思うが、それができないのは、昔のリーダーシップなるものが似而非(えせ)であって、単にアジテーションを叫ぶだけのアジテーターにすぎなかったのだ。われわれ選挙民は、扇動家の扇動にあおられて投票してしまったのである。

 もうひとつ、いま最も心配されるのは原発事故の処理にあたっている作業員たちに降りかかる放射線である。中には「死ぬ覚悟でやっています」という人もいるらしい。

 米FOXニュースによれば、東京電力は原発作業員に対し、国民がパニックになるので実情については黙っているよう箝口令をしいているという。作業員の母親が涙ながらに語ったところでは「作業員たちは誰もが放射線によって、数日あるいは数週間という短期間のうちに死ぬか、命長らえてもガンにかかって死ぬことを自覚している」とのこと。

 またCNNによれば、命長らえても、放射線に敏感な目がやられるので、いずれ白内障になるだろうという。

 作業現場での待遇も何故か恐ろしくひどいらしい。作業員はおよそ400人。原発から1キロ足らずのところにある小さな建物が宿舎になっていて、放射線を防ぐための鉛のマットの上で、毛布1枚をかぶって眠る。

 交替は3日間で12時間ごと。食事は1日2食。朝食は野菜ジュースとクラッカー30枚。夜は調理ずみの食事。ほかには、ほとんど何の差し入れもない。そのうえ部屋は寒く、水もシャワーもなく、ウェットティッシュのようなもので体を拭くだけ。そして休みの日がくると、会社の用意したバスで20kmほど離れた宿舎へゆき、シャワーを浴びて寝るのだそうである。

 もう少しどうにかならないものか。というよりも何故こんなことしかできないのか。それが不思議である。

 もっと不思議なのは、アメリカのメディアが報じていながら、日本の新聞やテレビが何故こういう具体的な問題を報じないのか。4月3日の朝日新聞は「命がけ作業」とか「ずさんな管理」と書き、東電労組が経営側に「徹底した安全管理を申し入れた」としながらも、作業環境の具体的な状況や、どれほど改善されたのかについては触れていない。それどころか、「作業員らが危険を覚悟で臨んでいる」とか「自分たちで何とかするしかないという思い」などと、一種の情緒的英雄譚で記事をまとめている。

 したがって、今の過酷な作業がいつ終わるのか。作業が終わるのが先か、自分の命が終わるのが先かも分からぬままで、彼らは仕事をしているのだが、朝日の記事は東電が恐ろしいのか、筆を抑えて実情を肯定しているかのように読める。

 現代最高の科学技術を扱う業界で、何故こんなことしかできないのか。いかに三重苦の非常事態とはいえ、もう少しやりようがあるのではないかと思うのは航兵衛だけであろうか。

 現場にゆきたがるカン首相や、毎日何度もテレビに登場して立派な解説を語る東電や保安院のスポークスマンたちは先ず、この作業現場を自分で体験してくるべきだろう。なに、大したことをしなくていい。線量計をもって作業員たちの後ろをついて回り、夜も同じ宿舎に3泊してくるだけでよかろう。さすれば、彼らの施策や言説もいくらか具体化し、英エコノミスト誌などにとやかく言われることもなくなるにちがいない。

(小言航兵衛、2011.4.9)

【関連頁】
   <小言航兵衛>原子炉注水(2011.3.19)
   <小言航兵衛>天罰(2011.3.17)

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