国家老害委員会と大ボケ彦左衛門

――警察の不祥事(4)――

 小言航兵衛は今日も怒っている。本6日(月曜日)になって発覚した一件は、何と警察官僚トップの2人を無罪放免とした国家公安委員会の決議が持ち回りだったというのである。ということは何の議論もしないまま、回ってきた書類にハンコを押しただけのこと。これでは公安委員会みずから単なる手続き機関であることを認めたようなものである。

 つまり村役場の戸籍係りみたいなもので、そんなことをいうと戸籍係の人に叱られるかもしれぬが、書類に不備がなければ受付けるまでのことで、それ以上の審査や議論をするわけではない。しかし警察官僚のトップを如何に処分するかは戸籍の受付けとは異なるはず。この重大問題について公安委員会が何の審議も論議もしないまま盲判(めくらばん)を押したのは己の存在理由(レゾン・デートル)を放棄したようなもの。委員会としては即刻解体すべきだと思うが、今ここで詳細を論じている暇はない。

 取り敢えず一昨土曜日から昨5日(日曜日)にかけて書いた同委員会に関する拙文をここに掲げておきたい。別に今日の持ち回り発覚を予測したわけではないが、拙文の結論が新たな事実によっていっそう強化されたことは確かである。

 

 今回の警察をめぐる椿事、もしくは珍事で、私の最も強く感じるのは国民の怒りである。無論これまでの事件でも怒りの程度は変わりがなかったであろう。しかし、いずれもうやむやのうちにはぐらかされ、国は国民の思う方には動かず、政治家や官僚にしてやられていた。

 けれども今回は違った。国民の怒りが爆発し、警察を狼狽させ、事件処理に反映し、ついには警察制度そのものまで左右しかねない動きに発展してきた。とりわけ大きな疑問は国家公安委員会の存在である。何しろ、この組織は警察機構最高の機関であって、しかも国民の代表ということになっている。

 にもかかわらず国民の側につかず、官僚の側についたから問題が生じた。不始末の2人――新潟県警本部長と警察庁局長に対する警察庁長官の甘い処分、もしくはお咎めなしとしたことをそのまま追認してしまい、国民の怒りを買ったのである。

 国家公安委員会とは警察組織に対する監視、監督の役どころであろう。いわば大久保彦左衛門である。その彦左衛門諸公の顔ぶれをみると、どなたも功成り名遂げたご年配の方々ばかりで、役者としての異存はない。

 この顔ぶれをもって、相手が将軍であろうと警察庁長官であろうと、真正面から直言するのが彦左衛門の身上である。しかるに実際は警察の過ちすら指摘できなかった。こんな弱腰では、彦左衛門たるの資格はない。要するに警察の言いなりになってしまい、テレビに出てきた政治家の1人が「デクの坊たちだ」と怒っていたのもうなづける。

 公安委員の一人は記者団に対して「自ら辞表を出すことの重みを考えよ」とか「さむらいの切腹は最高の道義だ」と仰有ったようだが、この人はお歳のせいか思い違いをしている。たしかに切腹は名誉ある行為である。しかし官僚機構の最高位にありながら官費で慰安旅行をしていた――それも、こともあろうに不祥事をなくすための特別監察の最中に抜け出し、みずから好んでマージャンなどという遊興にふけっていた。まさか女性が同席したわけではなかろうが、かかる不名誉な破廉恥罪には、昔から切腹は認められない。本来ならば、武士にあるまじき戦場離脱の罪で打首獄門がしかるべきであろう。

 その上この2人は世論の高まる中、他人(ひと)に説得されてしぶしぶ退職金を辞退したというから、その心根も到底さむらいなどという表現には当てはまらない。武士ならばもっといさぎよく、退職金でも我が身でも自ら投げ出すはずだが、公安委員の御仁は何をもってさむらいと言ったのか。役人だからさむらいなのか、警察官僚だからさむらいなのか、キャリアだからさむらいなのか。それ以外のものは町人だというのなら、町人だってもっと勇ましく、いさぎよい漢(おとこ)は大勢いる。

 その町人たちは、近年、嵐のように吹き荒れるリストラに翻弄され、辞表を出す前にクビを切られる者が多い。東京電力にリストラがおこなわれているかどうかは知らぬが、切腹を賛美しながらクビを切られるものの痛みは考えたことがないのであろう。

 また、ある公安委員は言う。「世論に押されて判断を変えると、誘惑や危険と隣り合わせで仕事をしている警察官が『世論で処分が変わるなら、自分たちは守ってもらえない』と考えて治安維持活動に躊躇してしまい、結局は国民の利益を損なう」とか。

 この回りくどい理屈からすると、警察の仕事が危険に満ちていることは察しがつくが、同じように誘惑も多いとは知らなかった。これでは、だんだん綱紀がゆるみ、悪事に走る警察官が増えるのは当然である。その綱紀のゆるみを監督するのが公安委員の仕事ではないのか――と思いきや、逆に警察官を守ることが彼らの役目だったらしい。これでは警察官がますます甘え、本部長や局長も増長し、軽い処分で逃れようとするのは当然である。

 にもかかわらず、世論は厳正な処分を望む。それに対して、別の委員は「国家公安委の判断は正しかったと思う。けしからんということと、懲戒処分を下すということは別の問題」と言う。この人は自分が国家公安委員であることを忘れているのではないか。第三者が正否を問われて正しいとか正しくないと言うなら分かるが、自分の判断を他人から甘いといわれて「正しかったと思う」と答えても答えにはならない。それに後段は懲戒処分はけしからんからするのではないかと思うが、そうでないとすれば何を言いたいのか意味不明で、これも答えになっていない。

 さらに本部長に対しては「最も重い減給処分を適用し、かつ引責辞任させることで委員全員に異論はなかった」と言う委員もいる。減給処分が最も重いとは、この委員にとっては余程お金が大事なのであろう。いわゆる高級官僚は高給官僚ともいわれるほどで、多少の減給などは痛くも痒くもない。金ですむなら、こんなに楽なことはないはずで、ここまで昇り詰めれば、金よりも名誉を重んじる方が正常な人間ではないだろうか。

「国家公安委としての決定を覆すことは『一事不再理』に反する」という意見もあった。しかし、自分で決めておいて『一事不再理』もクソもないだろう。これは自家撞着という矛盾であることにもお気づきではないらしい。ここで問われているのは最初の決定が正しかったかどうかである。それを棚上げにしたまま、『一事不再理』などという聞いたふうな法理論の陰に逃げこむのは卑怯というものだ。

 また「今回は国家公安委にとって、歴史的な勉強だ」という発言も聞かれた。どうやら、国家公安委員の皆さんは未だ勉強の途中だったらしい。こういうのを昔から泥縄というが、警察の最高機関が泥棒を見て縄をなっている構図はマンガを通り越して呆れ果てるばかりである。

 こうして見てくると、タガがゆるんでいるのは警察官ばかりではない。その監督にあたるべき公安委員もゆるみっ放しという実態がここに露見した。それも無理のないことで、年間報酬が2,600万円を超えると聞いた。こんなところでゼニカネの話をすると、こちらの品性まで疑われるかもしれぬが、官僚として最高の給与を取りながら、出勤は毎週木曜日の午前中のみ。警察の説明を聞いてお茶を飲んで帰るだけとかで、これでは文句も言えんだろう。

 要するに、国家公安委員という名前はいかめしいが、警察にすっかり飼い慣らされた楽隠居が、小遣いをたっぷり貰って、茶飲み話をしにくるだけなのだ。なるほど、それにふさわしいご年配ではあるが、大久保彦左衛門は79歳まで生きて、徳川家康、秀忠、家光の3代に仕え、天下のご意見番を勤めた。NHKの大河ドラマ「徳川三代」にはまだ登場しないが、いずれ出てくるだろうから、公安委員の諸公もよく見てご意見番ぶりを勉強して貰いたい。

 とはいえ、これから勉強しても、もう遅い。国家公安委員会の現状は今や国家老害委員会になり果てた。委員も大ボケ彦左衛門にすぎない。

 省みて公安委員会という制度は1948年、戦後まもなくアメリカに押しつけられたか真似をしたか、警察活動を管理する最高機関として設置された。以来無駄な半世紀を過ごして、結局日本の風土には根づかなかった。初めから官僚に楯突く気力のない日本人には不向きの制度だったのである。

 都道府県の公安委員会も未だ表面化していないが、どうせ同じように形骸化しているに相違ない。

 そこで最後に、税金の無駄遣いという観点も含めて、ここは一旦ご破算にして、国も自治体も公安委員会という制度を全て廃止するよう提案したい。そのうえで警察が信用ならんと思うならば、日本人の国民性に合った別の監視制度を考えるべきであろう。

(小言航兵衛、2000.3.5)

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