<ライト兄弟>

「わが心のキティホーク」

 数日前の本頁「航空人の聖地」(2013.12.3)を書きながら、木村秀政先生の『わが心のキティホーク』(1981年刊)を参照したいと思った。しかし、家中どこを探しても見あたらない。心あたりの本棚からは『飛行機革命』(1970年刊)、『わがヒコーキ人生』(1972年刊)、『飛行機の切手』(1973年刊)などが見つかったが、肝腎の『わが心の……』が出てこない。

 といって、押し入れの中にうず高く積み上がった本の山を崩してゆくのも大変だし、あとで収拾がつかなくなる恐れもある。やむなく家の中を探すのは諦めて、図書館に頼ることにした。その結果、今日その本を手にすることができたので、早速読んでみたいと思う。

 冒頭は「聖地巡礼の夢」という表題で、キティホークは「いやしくも航空を志すものが、一度は訪ねなければならぬ聖地であるという考えは、いつの頃からか私の頭に定着してきた」と、木村先生は書く。しかし、アメリカに何度もきているものの、その夢はなかなか実現しなかった。というのも「このキティホークが、いかにも遠くて不便なところという概念が私の頭から離れなかった」からだ。

「このあたりは、まことに不思議な地形で、ヒモのような細長い島とも岬ともつかないものが、本土との間に内海を抱いて南北に走っている。キティホークはその島の中にあり、島の幅が狭いので、東側も西側も海岸で、一帯が砂地になっている」

 そのためライト機に車輪や緩衝装置がなくてもソフト・ランディングができる。「これもライト兄弟がこの地を選んだ理由の一つであったろう」

 その島へグライダーやフライヤーを持ちこむために、ライト兄弟はオハイオ州デイトンからはるばる1,000キロも汽車で運び、さらに80キロの海路をはしけで運んだ。その苦労に比べれば、1972年の今は躊躇すべきではないと考えた木村先生は、ワシントンからナショナル航空のボーイング727に乗り、ノーフォークまで30分で飛び、空港からタクシーで市内のターミナルへ行き、バスに乗った。

 バスは途中で何度も停まり、荷物の積み卸しをしながら、3時間かかってキティホークに到着。遠くの小高い丘の頂上にキル・デビル・ヒルの記念碑を見ながら、その夜はモーテルに泊まった。


不思議なヒモのような地形

 以後、本書には1900〜1902年の3年間にわたっておこなわれたグライダー1〜3号機による飛行実験と、そこから得られたライト兄弟の空力上、構造上、操縦上の数々の発見と改良について書いてあるが、それは省略。

 そして、いよいよ「世界最初の動力飛行機」の話になる。そのためのエンジンは「ライト兄弟の計算によれば……82キログラム以下の重量で8馬力出せ」れば十分ということだった。しかし当時は「ガソリンエンジンをつけた自動車がやっと走りだした頃だから」どのメーカーも作ってくれようとしない。「とうとうライト兄弟は、自転車製作の経験を生かし……自作することにした」

 完成したのは「1903年5月……4気筒水冷型で、エンジン本体に冷却器、水、タンク、燃料1.5リットル、マグネト、配管などを含めて、90キログラム」。性能は予想以上で最大15.8馬力。数分後には「11.8馬力に落ちるが、水平飛行の所要馬力に対しては十分余裕があると判定された」

「プロペラの設計は……直径2.6メートルの双プロペラ式とし、チェーンで左右反対に回転するようにした。これで左右のプロペラのトルクを打ち消すようにしたことは、まことに賢明で、この構想がライト機の成功に大きく寄与した」

「プロペラの効率は66%でなかなかの成功だった。……この時代に、これだけ優秀なプロペラを作り得たのは、ライト兄弟のすぐれた技術的センスを物語るものといえよう」

 こうして「世界最初の動力飛行に挑戦するライト・フライヤー1号機はついに完成し、1903年9月15日、キティホークのキャンプに持ちこまれた」

「フライヤー1号機は、ライト兄弟の知恵の結集ともいうべき『考えて作った飛行機』であった。……前方に複葉の昇降舵があり、操縦桿で操作する。後方に方向舵があり、これは逆ヨーイング・モーメントを打ち消すよう、撓み翼と連動するようになっている。パイロットは下翼の上にある左右に動く台(クレードル)の上に腹ばいになり、台ごと身体を左あるいは右に動かすと、撓み翼が方向舵と共に操作される」

「エンジンは下翼の上に取り付けてあるが、事故のとき、エンジンがパイロットを押しつぶすのを防ぐため、取付位置を機の中心から右に寄せてある。一方パイロットは中心より左寄りに乗るようになっているが、エンジンはパイロットより15キログラムほど重いので、この不釣合を補正するため、右翼が10センチほど長くなっている。ほぼ同じ体格だった兄弟の体重に合わせたオーダーメード的飛行機だったわけである」

「さて、キティホーク到着後の兄弟には、さまざまの困難が待ち受けていた。機体を組み立て、エンジンやプロペラを装備するのは、なかなかたいへんな仕事だったし、いざエンジンを運転してみると故障だらけで、プロペラ軸だの、その付属金具だのがしばしばゆるんだり破損したりした。このため、オーヴィルは二度もデイトンの工場にもどって、補強した新しい部品を製作しなおさなければならなかった」

「飛行機の重量を少しでも軽減しようとするあまり、エンジンとプロペラを連絡する駆動部分の強度や剛性が不足して、次々に故障を起こす。これは70年後の今日、うちの学生が人力飛行機の製作でしばしば犯している失敗と全く同じである。理論計算だけではいかぬ、経験がものをいう部分がエンジニアリングの世界に存在していることは、昔も今も変わらない」

「機体の調子に合わせて、天候の方も荒れに荒れて、時には秒速30メートルを超す強い風が、はげしい雨を伴ってキャンプを襲ったりした。いくら精神的にタフなライト兄弟でも、だいぶ参っていたと想像する」

「新しい補強されたプロペラ軸が取り付けられ、エンジンの振勣もおさまって飛行準備が完了したのは、12月12日であった」

 世界最初の動力飛行が行なわれた場所は、キル・デビル・ヒルの北方700メートルほどの平地である。「海岸の砂地だというのにこの一帯は完全に水平で、飛行機の試験には理想的である。どうしてこんなに平らな場所ができたのかと土他の人に聞いてみたら、昔はこの辺が湖のようになっていて、その水が乾いた跡がドライレーキの形になったためだという」

「ライト兄弟は、この平地に長さ18メートルの一本のレールを南北方向に敷き、飛行機は台車にのせられ、このレール上を滑走するようになっていた。滑走車輪の重量と空気抵抗を節約しようとするライト兄弟の知恵であった」

 かくして「歴史に残る12月17日は、朝から10〜12メートルの北風が吹き……風にあおられる心配はあったが、着陸時の対地速度が低い利点もあるので、安全のためできるだけ低空を飛ぶことを条件に決行することにした」

 飛行は全部で4回行なわれた。その記録は先の本頁に書いた通りだが「4回目の着陸で機体を小破したので、この日の試験を終わり、格納庫の西側に機を置いて、一同できょうの飛行結果の反省会を開いていたら、突風で機が吹き飛ばされ大破してしまった」

「かくして、世界最初の飛行機、ライト・フライヤー1号機は、わずか4回の飛行をしただけで、数日間の短い生涯を終わったのである」


キル・デビル・ヒルの高所から見下ろした初飛行の平地。
画面左の道路の角にある石碑が離陸地点。
その右方に白く並ぶ石碑は4回の飛行の接地点。
手前から1回目、2回目、3回目と伸びて、
4回目は遙か遠くまで飛んだ。
中央の小屋は復元された格納庫と宿舎。
今は緑色の草地で、後方には森や建物があるが、
当時は何にもない砂地が広がっていたはず。

 『わが心のキティホーク』に書かれたライト兄弟の話は、およそ以上の通りだが、もうひとつ『飛行機の切手』の中で木村先生は初飛行の偉業について、次のように書いておられる。

「世界ではじめて飛んだライト・フライヤー1号は、ライト兄弟の技術的センスを物語る、なかなかすぐれた設計であった。なにしろエンジンの馬力が12馬力ぐらいしかないので、この低馬力で機体を空中に持ち上げるために、徹底的に機体の重量軽減がはかられた。

 初期の飛行機発明家が多かれ少なかれ鳥の影響を受けていたのに、彼らが鳥には全くない複葉という型式を考案したのも、上下の翼間を支柱と張線で緊張することにより、重量的に単葉より軽くなると考えたからであった。

 大胆にも滑走車輪を省いたのも、目方を軽くするためで、離陸のときは、機を台車にのせて滑走させ、着陸には橇を用いた。そして、橇で着陸したときの衝撃をできるだけ緩和するため、試験飛行には北カロライナ州キティホークの砂地が選ばれた。

 フライヤー1号機でもうひとつおもしろいのは、パイロットが下翼の上面に、腹ばいになって操縦していることである。翼上に坐っているより空気抵抗がずっと少なくなるはずである。こんな工夫でライト兄弟は、技術的なセンスから見て同時代の競争者をはるかに引き離しており、世界最初の動力飛行の栄誉は当然の結果といえよう」

 ところで、木村先生といえば、佐貫亦男先生も忘れてはならない。木村先生は明治37年のお生まれ、佐貫先生は明治41年だから、佐貫先生の方がやや若いが、同じ東大航空学科の卒業で、いつも非常に親しくしておられた。

 いつぞや、といっても今から30年余り前、朝日新聞社が『世界の翼』という年鑑を出していた頃、このお2人の先生が年鑑の監修者であり、主要な執筆者であった。その本が1982年版をもって終刊となるまでの4年間、私も執筆陣の一隅に加えていただいたことがある。

 その執筆にあたっては毎年1回、事前に関係者が集まって、当時有楽町にあった朝日新聞社ビル最上階のレストラン「アラスカ」で、ご馳走をいただきながら打ち合わせをする習わしだった。若輩の私などは、ほとんど発言することもなく、話題の中心となる木村先生と佐貫先生の談話を面白く聞いていたが、あるとき打ち合わせが終わって、執筆の分担が決まった途端、佐貫先生が「はい、これ」といって、原稿の束を新聞社の担当に渡された。

 木村先生が「えッ、もう書いたの?」と驚いた表情だったが、佐貫先生の筆はそのくらいはやかった。無論このときは事前に佐貫先生の分担が決まっていたようだが、「航空情報」誌の編集長、関川栄一郎さんによると、佐貫先生が中央線のどこだったか、ご自宅を出る前に原稿を依頼すると、電車の中で東京駅到着までに書いてしまい、そのまま銀座の酣燈社へ持ってこられたという話を聞いたことがある。

 その佐貫先生の『ヒコーキの心――フライヤー号からエアバスまで』(1974年刊)にも、冒頭にライト兄弟のことが書いてある。

「人類最初の飛行の目撃者はたった5人で、隣人たちだけであった。その淋しいデビューのほかに、兄弟が飛行後の休憩中、12月の海から吹き上げる突風がフライヤー(飛行家)号を転覆させてこわす不運もあった。しかし、兄弟の心は明るかった。飛行は確かに実現したのである」

 動力飛行が「ライト兄弟まで実現できなかった理由の一つとして、軽いエンジンがなかったことが挙げられる。現に、デイトン市で自転車工場を経営していたライト兄弟は、水冷四気筒12馬力、重量90キロのエンジンを自製している」

「しかし、こんな自製ならば、ほかの自転車屋、自動車屋ならなおさら可能であったはずだ。ある航空学者によると、ライト兄弟の成功の鍵は、彼らの執念の深さにあるという。たとえば、彼らはエンジンつきの前に、グライダーで操縦飛行の練習をした。最後の第三号グライダーでは、1ヵ月の間に1,000回に近い滑空を試みた。……なんというみごとな根性であろう!」

「そのほかに手製の風胴で、平板のほかいろいろな曲面板の空気力学特性をテストしている。これはまさに正統な技術進歩の道である。兄弟はけっして単なる機械工ではなかった。感情的な表現だが、まず彼らの写真を見るがよい。英知に満ちた、実によい顔をしている」


ライト記念公園で見た手製の風洞

「ライト式飛行機は、水平尾翼のない、主翼前方に昇降舵をつけたグライダーから出発した。しかも、主翼は下反角があるので、横の固有安定はない、したがって、ライト式はライト兄弟でなければ操縦ができないというようなオーバーな批評もあった。過度の安定性は操縦の感度を低下させる。これはライト兄弟の見識であった」

「プロペラだけでも、すぐれた構想である。プロペラ効率を高くするには、進行率つまり、飛行速度をプロペラの回転線速度(そのめやすとして、回転速度にプロペラ直径を掛けた値を使う)で割った比を大きくしなければならない。ところが、フライヤー号のように遅い機体では、プロペラ回転速度を減速して下げないと、進行率が大きくならない」

「ライト兄弟は確かに開拓者の資格があって、その成功はまぐれではなかった」


ウィルバーとオービル(ひげ)

 もう一度、木村先生に戻ると「ライフ・サイエンス・ライブラリー」というシリーズのひとつに『飛行の話』(1966年刊)という本がある。アメリカのタイム・ライフ社から出ている英文書の翻訳で、「監修木村秀政」。実際に翻訳したのは、実は私であった。

 今のようにパソコンやワードのような便利な器具のない時代で、会社から戻ると毎晩、膨大な英文を日本語に直し、ざら紙に書き進めた。それを、きちんとした原稿用紙に書き写すのは、私が出社中の家人の役目であった。

 A4版200頁の大きな本で、写真や図版も多く、各頁は原本と同じレイアウトにするため、その説明文は日本語の行数も英語と同じにすることなどという、出版社からのきびしい注文もあった。この作業に3ヵ月かかったか半年かかったか、もう忘れてしまったが、こんな面倒なことは二度とやりたくないし、やれないと思う。しかし当時は、ちょうど30歳。エネルギーの充実した頃であった。

 考えてみれば、ライト兄弟がグライダーの実験から動力飛行の成功に至るまでの3〜4年間は、やはり30歳前後。この年頃の人間は気力、体力ともに最も充実する時期にちがいない。

 その本の中に、オービルが初飛行の成功を知らせるため、牧師だった父親に打った電報の写真がある。

「12月17日、ノースカロライナ州キティホークからライト司教宛――木曜日朝、4回の飛行に成功。21マイルの風に向かい、エンジン出力だけで水平地から離陸。対気速度平均31マイル。最長滞空57秒。新聞に知らせ乞う。クリスマスに帰宅。オービル」

 この電文は、歴史的偉業を知らせるにしては、きわめて短い。電報だからやむを得ないとしても、最長滞空時間が「57秒」と間違った数字になっている。実際は59秒だったはずだが、おそらくウェスタン・ユニオン電報会社が打鍵を間違えたのであろう。

 とはいえ、この短い電文には、初飛行当日の発信だから、行間ににじむオービルの高揚した気持が感じられる。同時にまた、クリスマスに帰宅という付言が父親への情愛を見せてほほえましい。

(西川 渉、2013.12.6)

 

 

 


オービルと、天を望む

【関連頁】

         「航空人の聖地」(2013.12.3)
         ライト兄弟機が展示されるまで(2003.7.26)

(西川 渉、2013.12.6)

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