助数詞と左利きの矯正

 

 『学問の格闘』(日経新聞社、1999年6月25日刊)という本は、解剖学の養老孟司教授による若手学者との対談集である。副題に「人間をめぐる14人の俊英との論戦」とあるが、それほど大げさなものではない。むしろ若手の気負いを老練な養老教授がやんわりいなすというほどのもので、若手が一本道を突っ走っているのに対し、もっと違う道もあることをひょいと提示して見せたりする。

 たとえば、ものの数え方を示す「助数詞」の話。昆虫はふつう1匹、2匹と数えるけれども、クワガタムシは商品価値が上がって1頭、2頭と数えるようになった。若手がそういうと、養老氏が「専門家は昔から1頭、2頭と数えていますよ。大きさには関係なく、昆虫ならどれでも1頭、2頭です」と当然の話をする。

 研究の成果を軽く受け流された若手が「では、チョウもですか」と反撃する。「ええ。日常生活や文学的表現では1羽、2羽ですが、昆虫の論文では必ず1頭、2頭です」

 若手がさらに、1頭という表現には「貴重なものという意味がふくまれているのではないか」と食い下がると「もっともらしく聞こえるからそう呼ぶんではないでしょうか。……アメーバを1頭、2頭と呼ばないのはアメーバに頭がないからかもしれません」とからかわれてしまう。

 私はここを読んで吹き出したが、真面目で一本気な若手はよほど助数詞と価値判断の結びつきという発見が気に入っているらしく、鉛筆のような細長いものを1本、2本と数えるのは当たり前だが、柔道の1本やホームランの1本などには人間の評価が加わっている。だって「内野フライは1本とは言いません」と主張する。

 それに対して養老氏は、柔道の1本は元来剣道の竹刀の1本から来ているのではないかと注釈をつけている。それが展開して、とまで言っているわけではないが、ホームランの1本につながったのかもしれない。

 しかし、この話とは逆に、最近は何もかも1個、2個と数えるようになった。昨年秋のNHKテレビ・ニュースは「きょうは二百十日、台風の最も多い季節ですが、今年はまだ4個しか発生していません」という言い方をしていた。私はへんだなと思ったが、その後も繰り返し4個、4個というのでスィッチを切りたくなった。ここは矢張り「今年はまだ台風が4回しか発生していません」というのが普通ではないだろうか。

 先ほどの若手学者が言うように助数詞に価値判断が伴うとすれば、何でも1個、2個にしてしまうのは価値判断を表に出さないという悪平等主義の結果であろう。最後は日本語の貧困化につながるにちがいない。

 ところで、この本を読んでいて驚いたのは「左利き」の問題である。養老氏は幼時左利きで、小学校に上がる前に矯正されたが、別に問題なく直ったという。私も実は全く同じで、入学前1週間ほど左手を包帯でぐるぐる巻きにして三角巾で吊っていたら、食事をするのも文字を書くのも簡単に直ってしまった。

 しかし、左利きは無理に矯正すると精神的な影響があるという説もあって、本書の中でも対談の相手が「途中で左利きを矯正された医者は救命救急センターへ行くと使いものにならないと聞いたことがあります。いざ何か緊急事態があったとき“メス”と言われても矯正された人は一瞬混乱して体が動かなくなってしまう」と言い出す。

 このことを養老氏はあっさり認めて「確かに急場のときに体が動かないことは経験しています。……とっさの判断をしなければならないときは、具合が悪いんじゃないですかね」と語っている。

 いわれてみると、私も時どき右か左か、不意の判断がうまくできないことがある。特に最近は混雑した駅のコンコースで、次々と流れてくる人の波をうまく避けきれず、途中で立往生するようになった。自分では、歳のせいで体の動きがにぶくなったためとばかり思っていたのだが。

 あるいは最早30年以上も前のこと、自動車の運転も何だか危なっかしくてやめてしまった。それもこれも左利きの矯正に起因しているとは、この本を読むまで気がつかなかった。ひょっとして飛行機のパイロットになっていたら、たちまち事故を起こしたかもしれない。

 蛇足を加えると、養老孟司君は駒場のときのクラスメートだったらしい。らしいというのは一緒に遊んだ憶えがないからだが、いつぞや40年ぶりのクラス会があったときテレビで見覚えのある顔に出逢ったのである。

 テレビや本の中ではよくしゃべるのにクラス会ではおとなしく、それでも最後に次の会合は自分が幹事を引き受けましょうと買って出た。彼はまだ、その約束を果たしていないが、この次に会ったときは矯正された左利きの実体験について、お互いによく確かめ合い、パイロットとしての適正、もしくは危険性についても詳しく聞いてみたいと思っている。

(西川渉、『航空情報』誌1999年10月号掲載) 

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