医師と左きき

 

 脳神経外科医は、直径1ミリの血管に12本の糸をすばやくかけるといったマイクロサージカル・テクニック(顕微鏡手術の手技)の器用さを要求されるが、林助教授はその点では自信を持っていた。生まれつき左ききだったが、幼い頃、親に左手を縛られて、右手を使えるようになれと厳しく訓練されたため、両手ききになったことも、手先の器用さを発達させたのであろう。

 最近出たばかりの『脳治療革命の朝(あした)』(柳田邦男著、文芸春秋刊)の一節である。この本は脳低温療法の素晴らしい威力を具体的に描いていて、まことに感動的である。いずれ詳しく感想を書きたいと思うが、左ききの話が出てきたので、そこだけ先取りしたい。

 というのは、先に本頁にも掲載した養老孟司東大名誉教授の本とは丸っきり反対だからである。教授の本では、対談の相手が「途中で左利きを矯正された医者は救命救急センターへ行くと使いものにならないと聞いたことがあります。いざ何か緊急事態があったとき“メス”と言われても矯正された人は一瞬混乱して体が動かなくなってしまう」と発言する。すると、自分も左ききを矯正された教授がそれを認め「確かに急場のときに体が動かないことは経験しています。……とっさの判断をしなければならないときは、具合が悪いんじゃないですかね」と語っている。

 つまり左ききの矯正が、同じ救急治療の現場で有利に働くという説と不利に働くという説が出てきたのである。どちらでもいいようなものだが、私も左ききの矯正を受けているので、やはり気になる。果たして、どちらが真実か。それとも両方ともに正しくなくて、起用か不器用か、うろたえるかうろたえないかは左ききの矯正とは関係ない。別の要素で決まっているという可能性もあろう。

 それと、もうひとつ、上の文章には「左手を縛られて……厳しく訓練された」とあるが、本当だろうか。著者の筆が勢い余ってすべったのではないかと思うが、「幼い頃」であれば、私自身の経験からしても、縛ったりするような必要はなく、三角巾でちょっと吊る程度で、厳しい訓練などしなくても自然に1週間程度で右手が使えるようになるはず。

 あるいは、厳しい訓練を受けたとしても、それは無駄な努力だったかもしれない。そんなにきびしくしなくても治ったのではないかと思われるからである。さらに余り厳しく矯正しようとすると、左右の脳のバランスが崩れて、精神的な影響が出るかもしれない。したがって手先の器用さを発達させようとして厳しく訓練するのは、むしろ危険ではないのだろうか。

 私は自分が不器用とは思わぬが、さほど器用でもない。ただし右手がふさがっているときは左手でメモを取るくらいはできるし、パソコンで作文をするようになる前は右手にエンピツ、左手に消しゴムを持って、能率的に(?)文字を書いたり消したりしていた。

 脳の働きは、左ききの問題を含めて複雑でむずかしく、しかも今のパソコン・ソフトのように脆弱で壊れやすい。それだけに興味深いと同時に、ちょっと怖いところもある。

 これは蛇足であって左ききの問題ではないが、年を取ると脳の中の記憶の機序が劣化して、物おぼえが悪くなり、憶えていたことはどんどん忘れて行く。人の名前も咄嗟には出てこなくなるし、何かの文書を手から離した途端にどこに入れたか分からなくなって、探し出すのに何時間も何日も何か月もかかったりする。実際このごろは重要書類や参考文献など、さっきまで手もとにあったはずの物を探している時間が増えて困っている。

 このように人間の脳もコンピューター・ソフトもまだまだ不充分であることからすれば、今後なお改良の余地は大きい。ヒトはこれからまた何百万年もかけて進化するのであろう。

(西川渉、2000.3.18)

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