再び毒の缶詰 

 

 

 先日の本頁で「たばこは毒の缶詰」と書いたところ、2人の人から反論を受けた。というほど大げさなものではないが、ひとりは未知のヘリコプター整備士の方からで「いつも楽しく読ませて貰っています」というご挨拶があったうえで「ただ最近のたばこに関する頁は、なんとも言い難かったです」と、やんわり拒絶された。

 先日の拙文は本の紹介であり、また一般論であって、特定の個人の嗜好についてとやかくいうものではない。けれども、これも一般論だが、航空機のパイロットや整備士で喫煙者というのは矢張り不便ではないかと思う。航空機の周囲はもちろん、飛行場や格納庫の中など「火気厳禁」の場所で仕事をすることが多いからである。

 同じような意味で、ガソリンスタンドの従業員もたばこ好きでは働きにくかろうし、医師や消防士もたばこは控えた方がいいのではあるまいか。

 そういえば先日、霞ヶ関でヘリコプターの救急に関する会議があったとき、医師と消防関係者が多かったけれども、総勢11人で2時間の会議中たばこを吸う人は誰もいなかった。別に禁煙を強制した会議でもなかったのだが。

 

 もうひとつの反論は旧知の友人からで、私の本頁を見てすぐ岩波新書を読んだらしい。そして「あの本は偏見だ」という電話がかかってきた。無論その友人はたばこ吸いで、特に深夜パイプをくゆらしながら瞑想にふけっていると、昔の南米インディアンみたいに神との対話ができるような気がするという。

 あわただしい喧噪の日々を暮らしている中で、たばこによってそういうゆったりした思いに沈むことができるのは、これは素晴らしいことだと思う。私もそこまで否定するつもりはありません。

 しかし同じ席で食事をしていて無闇に煙を噴き上げられるのは、いささか迷惑である。つい2か月ほど前のことだが、その友人を含めて4人で酒を酌み交わしたとき、私を除く3人がいっせいに煙幕を張りめぐらしたのには驚いた。それからしばらくして、今度は別の友だち8人が集まって寿司屋で同窓会をした。あのときは誰もたばこを吸うものがいなくて、はなはだ気持が良かった。

 ともかくも近年、たばこを吸う人はだんだん少なくなってきた。加えて、われわれの年輩になれば歳のせいもあって、たばこをやめた人も少なくないはず。その両方が相まって煙害が減ってきたことも確かである。

 

 話は違うが、2〜3年前であったか、虎ノ門にある日本たばこ会社の屋上を見せてもらったことがある。このJTビルのてっぺんには立派なヘリポートが設けてある。ただし緊急用のヘリポートであって、航空法にもとづく正規の手続きはしてないから普段は使えない。

 その説明を受けるために会議室に通されたとき、机の上にいろんな銘柄のたばこが積んであって、「先ずは一服どうぞ」とすすめられた。同行のたばこ吸いは喜んで吸っていたが、この会社の会議はさぞ煙たかろうと、余計な心配をした。

 それから屋上に上がってヘリポートを見せてもらった。広くて大きなヘリポートである。その形は現場に立つと分からないけれども、空中写真や図面では灰皿のように見えるところが妙である。

 確かめたわけではないが、建築デザイナーの意図もきっとそうだったにちがいない。JTビルの屋上を見ていると、何だか吸い殻を置きたくなる。

 野口悠紀雄は最近の著書『「超」整理法3』(中公新書、1999年6月25日刊)の中で「自動車が速く走れるのは、ブレーキがあるからだ」けれども、飛行機は急に止まれないから広大な土地を使って着陸のための滑走路を用意しなければならないと書いている。余り巧い比喩とは思えぬが、それにつづけて「喫煙が危険なのも、禁煙が非常に難しいからであろう」という。

 たしかに飛行機はヘリコプターと違って急に止まれないし、喫煙も危険である。しかし先の本頁にも書いたように、禁煙はそんなに難しいものではない。「その通りだ。俺はもう何度も禁煙をした」という笑い話があるが、ニコチン中毒などは容易に払拭可能である。

 友人諸君も野蛮な悪習は早く捨てて貰いたい。

(小言航兵衛、99.7.18)

 


(買ったばかりのデジタル・カメラでパンフレットを撮影したのだが、
パソコンに取りこむと、こんな風にざらざらの画面になる。
もとのパンフレットはきれいで、デジカメの液晶画面も美しい。
にもかかわらずパソコン画面では、たばこのせいか煙ったようになる。
どなたか解消法を教えて下さい)

(「読書篇」目次へ) (「小言篇」目次へ(表紙へ戻る)