<野次馬之介>

福島原発を見る(2)

 福島第1原子力発電所では、まず免震重要棟に案内された。免震重要棟とは2007年の新潟県中越沖地震の教訓から、大きな地震がきても緊急時の対応に支障をきたさぬよう、通信、電源などの重要設備をととのえた建物で、2010年7月に建てられた。土台には地震の揺れをやわらげる免震装置がほどこされ、入口は二重扉で、放射性物質が建物の内部に容易に入らぬようになっていて、外気を浄化する換気装置も設けられている。

 その2階に緊急対策本部がある。部屋に窓がないのは、建物のすぐ裏手にあたる海側に4基の原子炉が並んでいるので、万一の場合の放射能を防ぐため。その代わり、窓をなくした壁面に大きなモニターがあって、テレビカメラで原子炉建屋のもようが映し出されている。

 その横にある、もうひとつ別のモニターは画面が9つに区切られ、東電本社や首相官邸などのカメラから送られてくる映像が見える。これでいくつもの施設を結んだテレビ会議が可能になる。

 室内中央には多数の机が楕円形につながっていて、発電所長を初めとする幹部、さらには原子力委員会といった役所のデスクがある。その全てが向かい合っているから、いつでも関係者全員が顔を合わせて協議ができる。

 すなわち、舞台装置としてはほぼ完璧な仕組みである。しかし、それがうまく機能するかどうか。311のような事故が起こったとき、全員が集まってワイワイやれば、却って混乱するかもしれない。しかし、吉田昌郎所長の指揮下ではそんなことはなかったはず、というのが馬之介の理解である。ところが、そこへ菅首相なんぞが乗りこんできて、混乱どころか本当に機能が止まってしまったのだ。


福島原発の緊急対策本部を見る日本航空医療学会の面々

 当時の菅直人首相が福島の現場へ飛んだのは事故の翌日であった。以下、首相の動きを、手もとの『福島原発事故独立検証委員会調査・検証報告書』(2012年3月11日刊)によって確認しておきたい。 

 地震の発生は2011年3月11日14時46分。15時頃には、官邸地下の危機管理センターに首相以下の関係閣僚や各省庁の局長クラスが集って協議が始まり、15時14分緊急災害対策本部が設置された。

 その頃から沿岸各地を津波が襲い始め、福島第1原発の電源も15時35分に断絶した。そのことが、東京電力から経産相、原子力安全保安院などに報告されたのは15時42分である。

 夜になって、電源を失った原発に、官邸の手配による電源車が到着した。ところが、それをつなぐコードがなかったりして、現場は混乱した。このままでは原子炉格納容器の圧力が上がり過ぎるというので、深夜、12日の午前1時30分頃、官邸の了承を得てベントをすることになった。

 しかしベントは、電源の切れた現場ではなかなか実施できない。午前5時頃にそのことを知った菅首相は12日の明け方、午前6時14分に官邸の屋上ヘリポートから政府専用ヘリコプターで福島へ向かった。

 首相が来ることを知った現地の吉田所長は突然の訪問に難色を示し、東電本社とのテレビ電話で「私が総理の対応をしてどうなるんですか」などと激しいやりとりをしている。

 一方、ヘリコプターの機内では、同乗の斑目委員長がいろいろな懸念を伝えようとしたが、菅首相は「俺の質問にだけ答えろ」と、それを許さなかった。その後、一問一答が続き、その中で「水素爆発は起こるのか」という質問に、委員長が「格納容器の中は窒素だけで、酸素がないから爆発しない」と答えた。

 7時11分、ヘリコプターが原発に到着、首相は迎えのバスに乗り移ると、横に坐った武藤東電副社長に「何故ベントをやらないのか」と初めから詰問口調であった。副社長が「電力がないので、電動弁が開けられない」と答えると「そんな言いわけを聞くためにきたんじゃない」と怒鳴った。

 バスを降りた首相は免震重要棟で吉田所長に会い、「決死隊をつくってでもやります」という答えを聞いて、やっと納得した。

 8時4分、首相は再びヘリコプターに乗って原発を出発した。官邸に帰着後「吉田という所長はできる」という感想を枝野官房長官に伝えている。

 結局ベントは、首相のヘリコプターが飛び立った後、9時15分頃、格納容器ベント弁の手動開を経て、10時17分に中央制御室から開操作をして成功と判断された。

 ところで、ヘリコプターの飛行中、菅首相から「俺の質問にだけ答えろ」といわれた斑目委員長は、その時どんなことを考えていたか。『証言 斑目春樹――原子力安全委員会は何を間違えたのか?』(岡本孝司、新潮社、2012年12月15日刊)を読んでみよう。

「ただでさえ、事態は複雑かつ困難なのに、政府の最高指揮官である菅さんが、さまざまな情報が集約されてくる官邸を離れ、自ら最前線に赴くことにどれほど意義があったのか、いまだに私には分かりません」

「あたり構わず怒鳴り散らす菅さんのエキセントリックな性格には、私を含め周囲が皆、対応に苦慮していました」

 ヘリコプターで「同行を命じられたのは(出発の)1時間ほど前でした。唐突にそう言われて『なんで』と思わず問い返した記憶があります」。それに対して、官邸側の答えは「現地に着くまでの時間を使い、総理がもっと詳しいことを知りたいと言っている」。とすれば「視察への同行は『総理のお勉強』に付き合うのだな、と理解」した。

「菅さんは……端(はた)からみれば、どう考えても場当たり的というのでしょうか、そういう対応」であった。

「確かに『オレは原発に詳しい』とは言っていました。しかし、そんな菅さんを迎えた現場は大変だったと思います。事故対応で必死だったところに、いきなり乗り込んできた菅さんの相手をするだけでも、貴重な時間がずいぶん浪費されてしまったのではないでしょうか」 

 斑目委員長の証言は続く。免震重要棟で、総理大臣一行が2階の会議室に案内されると、武藤副社長と吉田所長が並んで待っていた。このときは、まだベントができていなかったので、副社長が「ベント弁を開けるには、圧縮空気を送るためのコンプレッサーと電源が必要で、その手当に手間取っている、などと話していました」

「ところが、1〜2分して、菅さんが怒鳴り始めました。『そんなこと、そんな言い訳を聞きに来たんじゃない!』例によって周囲を威圧するような強い口調でした」

「『いま決死隊をつくっています。すぐにでもベントしますから』
 とっさに吉田所長が引き取って、そう宣言しました。机の上に図面を広げて、詳細を省いて、菅さんにベントの早期実施は可能と説明していました。やや芝居がかったパフォーマンスでしたが……菅さんは、吉田所長の決意表明に満足したようでした。『決死隊』が良かったのかもしれません。吉田所長の『顔と名前が一致した』と話していました。しかし、私にとっては、実りの少ない現地視察になってしまいました」。「官邸でも、総理の不在により対応が後手に回っていたようです」

 かくて斑目委員長の菅首相に対する評価は次のようになる。

「菅さんには相当に問題があります。すぐに怒鳴り散らす。携帯電話だと、耳に当てて話すと鼓膜が破れるのではないかと思うくらいです。何日か後、私が直接電話で指示を受けたときは、電話を机の上に放り出してしまいました。怒鳴るだけでなく、人の話もちゃんと聞かない。話を遮り、思い込みで決めつける。震災発生後は……精神状態がガチガチで、ほとんど余裕がない。一国のリーダー、それも国難とも言える危機的な状況では、リーダーの座にふさわしい人物だったかどうか」

 では、菅首相の突然の来訪が、福島原発の現地で苦闘していた人びとの眼に、どう映ったか。次は『死の淵を見た男――吉田昌郎と福島第1原発の500日』(門田隆将)を読むことにしたい。(つづく

(野次馬之介、2014.1.16)


首相官邸を飛び立つ政府専用ヘリコプター

【関連頁】
   <野次馬之介>福島原発を見る(2014.1.15)

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