情 報 量 と 精 度

 

 昨日の天気予報の話のつづきだが、先にも本頁に書いたように、近頃はなかなか予報が当たらない。気象庁は地球の温暖化によって気象現象が複雑になってきて、先々の見通しがむずかしくなってきたという言い訳をしているかどうかは知らぬが、もっと観測地点をふやすべきだとか、そこから得られた情報を迅速に、大規模に処理できるようにしたいと主張している。

 そのためにはスーパーコンピューターを増やさねばならない。つまり予算を増やしてもらいたいというのである。

 私の考えは、そんなことをしても無駄である。観測地点を増やして数値データだけを無闇に集めても、予報の精度が上がるわけはない。そうではなくて、もっと空そのものをよく観測する必要がある。そのためには気象庁が大手町などという都会の真ん中に居るのではなくて、観天望気が充分にできるような、空がよく見えるところへ引っ越すべきではないかと、これも先に本頁に書いた

 ところで最近、『ハイテク過食症』(デヴィッド・シェンク著、倉骨彰訳、早川書房、1998年7月刊)を読んでいて、同じようなことが書いてあるのを見つけた。「情報量の増加と正確性の減少」に関する次のような理論である。 

 状況判断能力は、情報負荷が増すにしたがって、初めは適切な上昇を示すが、あるポイントをさかいに、その後は低下する。

 自己の判断力に対する自信は、入手情報が多くなればなるほど増加するが、判断の正確性は向上しない。 

 そして「天気予報における情報量と正確度の関係」と題する下図のようなグラフが掲載されていた。 

  この図によれば、情報量を増やしてゆくと、理論的には正確度が上がるように思えるが、実際は却って下がってしまう。なぜなら図中にあるように、情報処理が間に合わないからで、気象現象などはパラメーターが多すぎて、多少のスパコンを増やしたくらいでは太刀打ちできないのである。

 この図はまさに私の言いたかったことと同じである。おそらく天気予報の専門家諸君は、こういうことはとっくの昔にご存知だったのであろう。こちらは素人なりに考えて同じような結論に達したのだが、彼らは知らぬ顔で予算の増額を求めていたのである。

 ところで気象庁が理屈と機械に頼るばかりで、なかなか予報が当たらない現状の中で、気象予報士は何をしているのだろうか。気象庁が「明日は晴れ」といったとき、予報士が「私は、雨になると思う」という予報が出せるのだろうか。それとも気象庁の規制がかかっていて、勝手な予報を出してはいけないことになっているのだろうか。

 予報士の権限についてはよく知らぬが、もし規制がないのであれば、気象庁と予報士、そして予報士どうしの間で競い合って予報を出してもらいたい。そんなことをすると家を出るときに傘を持つべきか、持たざるべきか混乱するかもしれぬ。しかし、そのうちに、どの放送局の予報がよく当たるか、誰の予報が正確か、「いや、あいつの予報は駄目だ」などと、いろんな評判が立って天気予報が面白くなり、しかも精度が上がるのではないか。

 今の天気予報はテレビの場合、お花見の名所とか観光地の朝とか、本来の精度とは関係のないところで競争がおこなわれている。問題は予報の精度である。はずれの多い予報士の時間にはスポンサーがつかなくなるかもしれない。

 天気予報も規制を緩和して、自由化せよ。

(小言航兵衛、2000.4.20)

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