<小言航兵衛>

悪態語の研究 

 今年初め『日本語を反省してみませんか』(金田一春彦著、角川書店、2002年1月10日刊)を読んでいたら、日本語の悪態はアメリカなどのそれにくらべて、まことにおとなしいという話が出てきた。馬鹿、阿呆、間抜け、トンマ、コンチクショウ、クソなどと言うが、下半身に関するのはクソぐらいしかない。あとは意味不明の支離滅裂なものばかりである。

 そこへゆくとアメリカの悪態は口にするのもはばかられるような言葉のオンパレードである。「やはり牧畜民族であったなごりだろう。……性に関する言葉にも、あまり抵抗がないのかもしれない」と著者は書いている。明治時代に来日したポルトガル人モラエスも「日本語に侮辱や下衆(げす)の言葉がなくて、もっとも下品な言葉が『馬鹿』だということに感心」したそうである。

 しかし、日本人が他人の悪口など言わない慎み深い民族かといえば決してそうではない。著者によれば『世間胸算用』や『東海道中膝栗毛』や歌舞伎の悪口場面などがその証拠になる。『胸算用』に出てくる「悪態祭り」は、おおみそかの夜に京都祇園神社の境内に大勢が集まって悪態のつきくらべをするとかで、この風習は明治以後も残っていたらしい。

 「こうしたものが受けた理由は、庶民にとってストレス解消になったからであろう。……登場人物の悪態は、自分たちの思いのたけを晴らしてくれるものだった」というのがその結論である。

 話は変わるが、先日、松尾和子さんからメールをいただいた。別に歌を歌う話ではなくて、ロンドン在住のジャーナリストである。この人が書いている「ロンドンより1200字」というスカイネット・ワンのホームページで小言航兵衛を紹介していただいたらしい。

 そのサイトに行ってみると「中国のスポークスマンなどの意見を聞いて本当にかっかときてしまいました。……さっさとODAを引き下げましょう。私より過激な方が、『Aviation Now』で書いていらっしゃいますので、ご一読なさると溜飲を下げること請け合います。瀋陽事件(4)――再々外務省不要論。ここ2日は晴れたり雨が降ったり、変な天気が続いています」(May 24, 2002)

 ここでも、悪態は溜飲を下げる、つまりストレス解消に役立つとされている。とすれば、ストレスの多い世の中、小言航兵衛としても、ますます頑張って世の人の精神衛生に貢献しなければならないと思う。むろん金田一先生のいうように日本人らしい節度を保ち、多少のユーモアを交えて下品になってはいけないと、自省しながらのことだが。

 このスカイネット・ワンには畏友「宮田豊昭の部屋」もあって蘊蓄と見識が語られている。松尾和子さんに『航空の現代』を紹介してもらったのも宮田さんであった。

 ところで、昨年夏に読んだ『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』(谷沢永一著、ビジネス社、2001年6月21日刊)は、悪態がぎっしり詰まった本である。しかし私としては、その前に総計770頁の分厚い『国民の歴史』(西尾幹二著、産経新聞社、1999年10月30日刊)を読んでおり、「新しい歴史教科書」が同じ系列につながるものであって、従来の日教組や朝日、岩波などの社会主義的反日観を正すまっとうな教科書ではないかと思っていたので、とまどいを禁じ得なかった。

 それに西尾幹二氏も谷沢永一氏同様、私の愛読する著者である。もっとも「歴史教科書」は西尾先生独りの著作ではないし、谷沢先生の批判は、この教科書が歴史上の事実や根拠に即してないことに向けられているのであって、大いにもっともである。といって朝日新聞が言うように、この教科書が一方的に悪いというのでもない。『絶版を勧告する』の中では同紙に対する批判もなされていることを忘れてはならない。

 朝日は、この教科書が「自国中心の歴史観」で書かれているのがいけないと言っているらしい。しかし、どこの国に自国中心の歴史観を主張しない国があろうか。

 歴史の叙述が始まった遠い昔から、歴史観は例外なく自国中心であった。ヘロドトス以来、司馬遷以来……いざ記述に際しては、特に国際的環境の描出では、自国中心の歴史観に固執している。それ以外は展望する方法は他になかった。今もない。自国中心の歴史観を捨てて、それで立派な歴史を書いた人が、一人でもいたら挙げてみよ。歴史観の問題は言い掛かりである。

 朝日新聞が、なぜ怒っているかを推察するに、恐らく『公』を国家と読みとったからであろう。国民が日本の国を尊重し、したがって国民が団結することは、朝日新聞の方針に反する。国民が国家を念頭におかず、相互に連帯の気持ちを持たず、国力を弱めることに努めている朝日としては、とうてい許しがたいのであろう。朝日新聞は、日本国民に愛国的、道徳的存在になって欲しくない。もう自分のことしか考えないネズミのような人間でいて欲しいのだ。『公』をどう運行するかについては朝日新聞が考えるので、日本国民は考えなくてよいということである。

 谷沢先生は、こう言って朝日新聞を糾弾し、悪態をついているわけだが、ここで素人が歴史観や教科書の論争に入ってゆくつもりはない。本篇は悪態語の研究が目的だから、そのことに話題を絞ることとしよう。

 まず『絶版を勧告する』の扉をあけると、いきなり「絶版勧告」があって、「無知、無学、誤記、誤認、虚偽、捏造、歪曲、粗放、出任せ、虚勢、出鱈目、あてずっぽう、傲慢、思い上がり、による内容空疎な叙述を、恥知らずで知ったかぶりのハッタリで色あげした愚書であるから、絶版に処せられるよう勧告する」と、すさまじい悪態が出てくる。

 次いで目次には、以下のような悪態語が並ぶ。

 とかくメダカは群れたがる、嘘とハッタリに満ちている、無学と嘘で固めた本、辞書ぐらい引け、噴飯ものの川柳観、逃げの常道、基本文献ぐらい読むべし、必ず原文にあたるべし、卑屈な日本文化理解、西欧コンプレックスに取り憑かれた執筆陣、常識の欠如、左翼教条の残滓、議論倒れと右顧左眄、後半で腰くだけ、無理解に基づく、決定的な誤りとウソ、重要事項が欠落している、初歩的な見当違い、歴史を捏造する、乱痴気騒ぎの記述、意義と効果に知らん顔、原理をぼかす、鈍感さが目立つ

 上の目次だけでも、つかみ合いになりそうな激しさだが、本文の悪態は、もっとひどくなって、随所に次のような悪態が出てくる。

 無責任な逃げ口上、間違いだらけの頓珍漢、よく分からぬ朦朧語法、責任を回避、心にやましいところがあるのか、カビの生えた唯物史観の受け売り、如何にも御尤もであるようだが、付け焼き刃のせいか、さすがに気がひけたのか、ワケのワカランことを付け足しているが何を言わんとするのかわからない。

 国民を愚弄するイタズラ文書、三百代言の詭弁、当てずっぽう、架空のハッタリ、百害あって一利なし、一知半解、なまじい聞きかじったのか、さらに面妖な箇所がある、なんだか別世界から幽霊があらわれたかのように、じつに奇妙な表現、思い上がりは異常、考えてもみないのだ、御冗談でしょう、頭の悪い怠け者の癖、これはウソだとすぐわかる、これほどの愚かな嘘つきは空前絶後、無責任の極みである、責任者出てこい!

 こうした悪態語のほかに、少し長い悪態文を見てゆくと、以下のようなものが散見される。

「これはウソであり、妄想であり、欺瞞であり、出鱈目である」「執筆者は、歴史についてはど素人の集団なので、区別がつかなくなって迷走している」「例によって雲をつかむような話である」「一体何を基準にそんな判定を下し得るのか。評論の世界に人材は多いが、ここまで思い上がった人はいない。こんな発熱患者を、大阪では雪駄の土用干しという。つまり、反りかえっているの意である」

「これは完全な誤りである。この書き方は国辱である」「執筆者は知らないことを、なぜ進んで書きたがるのか。恐らく世間ふつうのジャーナリズムや学界では相手にされなかったので、責任を問われない教科書で、ウップンを晴らすという寸法であろう」「ケッサクなのは、それらの文献リストを掲げたこの教科書の執筆者が、その文献を読んでいないという喜劇である。恐らくは若い時から読まない本を書棚に飾って育ったのであろう」

「この教科書の執筆者は、ちょうど小便がしたくなるように、定期的にウソをつきたくなるのであろうか。……オシッコがしたくなって、ウソを書かぬと気がすまないのであるらしい」「事実からわざと目を逸らして綺麗事に仕立て上げるのは、この教科書が万事無責任で押し通すべく企んでいる証拠である」「何事につけてもこの教科書は、そんなことだったろうと、宛推量で書くのが常であり、正確を期すという心構えなどまったくない」「こんなに鈍感なポカンと空を見あげる格好で歴史がわかるか」

「なんとまあ、よくもこのような突飛な歪曲を考えたものだ。こうなると、教科書をつくっているのではなく、出鱈目の冗談を出たとこ勝負に競いながら、世を茶化し人をからかい、阿呆陀羅経を唱えて遊んでいるとしか言いようがない」

 以上のような悪態が何に向けられているのか、その矛先にあるそれぞれの事項については、本書を見ていただくほかはない。が、最後に一例だけ挙げておこう。

 家康の大阪城潰しについても、「機会をとらえて大阪城を攻め」(125頁)などという、これほど人を馬鹿にしたウソッパチを、恥ずかし気もなく書き記した欺瞞表現は、過去現在を通じて何処にも見当たらない。家康の悪謀は、これが人間のすることかと、人間性について絶望させるほどの鬼気せまる惨酷な詐略であった。家康は二千年の歴史に空前絶後の極悪人であった。

 これほど卑劣に敵を瞞しきった人間は他にいない。この教科書は、その家康を弁護するのであるから、執筆者たちは、悪謀を嫌悪するどころか、悪謀に加担する根性である事実が明白である。執筆者一同、根っからの悪人なのである。

 家康が金箔つきの悪人だということについては、多少とも当時の歴史を知る人で、この教科書の執筆者以外には反対するひとはいないだろう。家康は、まさにありとあらゆる人智を越えた悪業をなしている。それは、調べれば調べるほど極まりなくわかってくる真実である。

 谷沢先生は大阪人だから、東軍徳川への恨みが残っていてもやむを得ない。それに家康大権現への信仰は400年にわたって日本人の心底に植え付けられてきたもので、迷信にも似た誤解を解こうというのだから、筆先も鋭くならざるを得ないのであろう。

 学者だってこのくらいのことを言うのである。航兵衛もうかうかしてはいられない。家康にも似た悪人は今、政官界にウジ虫の如くわき出てきた。官僚は常に正しいとか、悪事を働かないといった迷信を打ち砕かねばならない。個人的ストレスばかりでなく、社会的ストレスをもやわらげなければならない。ここに改めて鉢巻きを締め直す次第である。

(小言航兵衛、2002.6.4)

【参照頁】
   抵抗勢力リスト2002.5.31/加筆2002.6.1)
   瀋陽事件(4)――再々外務省不要論2002.5.23)

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