<瀋陽事件(4)>

再々外務省不要論

 5月22日正午のニュースで、中国に囚われていた北朝鮮の5人が午後からフィリピンを経由して韓国へ向かうことになったと伝えられた。何はともあれ、事件の解決は喜ばしく、5人のためにもこのうえないことと思う。

 それにしても、この2週間、外務省のていたらくはまこと情けないものだった。以下の文章は、このニュースが伝えられる前、22日の明け方書いたもので、タイミングとしてはややずれた感があるが、ここに掲載しておきたい。

 中国戦線における外務省の敗走が始まった。むろん瀋陽事件のことである。ご承知の通り、2〜3日前から「人権優先」の旗を正面に立てて、5人の身柄引渡しはもとより、中国を出る前に身元と意思を確認することも事実上断念してしまった。

 初めのちは首相も外相も他の政治家も役人も、馬鹿のひとつ覚えじゃあるまいし、口々に「毅然として」対応するなどと言いながら、次々とボロを出して何とも救いようのない状態になってきた。あとは毅然ではなくて偽善の旗の陰に隠れるほかはなくなったのである。

 念のために「毅然」とは「意志が堅く、ちょっとしたことでは動じないさま」を言うが、あっという間に意志が崩れ、テキの言い分に動かされてしまった。この際、毅然としていたのは中国の側で、日本側は卑屈であり、怯懦であり、惰弱であった。

 念のために卑屈とは「心がいじけていて気力がなく、その様子が外から見て卑しく感じられるさま」を言い、怯懦(きょうだ)とは「気が弱く、臆病なこと」であり、惰弱(だじゃく)とは「ぐずぐずしていて意気地がないこと」である。全てが外務省を中心とする日本側の態度に当てはまるではないか。 

 そこで、日本側の毅然たる姿勢を示すためには如何すべきか、ここでは3つの提案をしておきたい。

 第1は、問題を手放すことである。いつまでもぐずぐず、うじうじ、いじいじと話しをしているから付け入れられるのであって、「そんなら好きなようにやってくれ」と交渉の席を立つべきである。日本側に非がないのであれば、あとの是非は国際社会が判定するであろう。

 第2は、そのうえで中国への莫大なODA援助の打ち切りを通告すべきである。むろん通告だけではなくて、実行しなければならない。

 そして第3は、外相以下の関係者を厳重に処罰すべきである。それも訓告だの訓戒だの減俸だのという生ぬるいものであってはならない。外相は更迭、次官や大使や総領事は懲戒免職、中国警官の帽子を拾ってやった男はそこいらのごみ拾い、英語の読めなかった男はNOVAへ出向して門番でもやらせたらよかろう。「門前の小僧」というから多少は読めるようになるのではないか。 

 最後に、これらの全てをひっくるめて三度び提案するが、外務省はどう考えても要らないと思う。解散か廃省にすべきである。外交は国家の総力戦である。こんな厄所がなくなり、厄人がいなくなったところで、日本国としては痛くも痒くもないのだ。

(小言航兵衛、2002.5.23)

【関連頁】

   瀋陽事件(3)――憲法違反の外務省(2002.5.17)
   瀋陽事件(2)――「亡命者は追い出せ」(2002.5.16)
   瀋陽事件(1)――外務省不要論(2002.5.10)

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