山となると雨になる

 

 

 ここ1年ほどであろうか、NHKテレビの天気予報で「明日は雨となるでしょう」という言い方がはじまった。私の語感では、なんだか大袈裟な表現に聞こえてならない。なぜ「明日は雨になるでしょう」という普通の言葉遣いができないのだろうか。

 「明日は激しい雷雨となるでしょう」「大嵐となるでしょう」「珍しい大雪となるでしょう」は、まだいい。けれども雨はそんな特別の気象状態ではない。晴れ、雨、曇りなどは極く普通の自然現象で、そこに「と」という吃驚した気持ちをあらわすような助詞をもってくるのは、日本語としてヘンではないかと前々から気持ちが悪かった。

 そんなことを考えていたところへ、昨日ふと見つけたのは雑誌「図書」(2000年1月号、岩波書店)の大野晋先生の一文である。なぜ「塵も積もれば山となる」といって、「山になる」といわないのかという質問に対する答えであった。 

 塵も積もれば山となるという場合、「山ト」は「山」に対立する何かが心の中にあって、それと「山」を較べると「山」は特別に大きい、特別に対立的な存在であるという意識を表しています。……時には驚嘆の気持ちを持つと見られる存在だということをトは表現しているのです。

 塵も積もれば山になるといえば、ナルことの自然的な帰着点として山ができるということ。「山」を特に鮮明に指示する気持ちはありません。

  なるほど、この説明からすれば、目に見えない小さい塵が積もり積もって、ついに大きな山ができるのは、これは驚嘆すべき現象だから、当然「山になる」ではなくて「山となる」でなければならない。

 しかし単に雨が降るくらいは日常茶飯事、驚くような現象ではない。雲の中の水滴が成長し、その「自然的な帰着点」として雨滴になり落ちてくるだけのこと。これを激しい雷雨や大嵐と並べて「雨となる」は矢張り大げさで、日本語としては間違いであろう。

 おそらく明日は雨ですよ、傘を忘れないでくださいよということを強調したいのだろうが、気象予報士も、槍ならばともかく、雨が降るくらいで騒がないでもらいたい。

 あるいは天気予報は気象予報士のしゃべりだから、日本語が下手でも構わない。その方が却って視聴者の親しみが増すとでもいうのかもしれぬが、NHKなんだから正確な日本語をしゃべってくれと言いたい。それに最近は、普通のアナウンサーまでが「明日は雨となるでしょう」などと言い出した。これは悪貨が良貨を駆逐する現象である。

 第一このごろの天気予報はいっこうに当たらない。ウソばかりついている上に言葉まで出鱈目では、取り柄がなくなるではないか。

 もうひとつ、最近の天気予報で気になる言葉は「冬晴れ」である。昔から「五月(さつき)晴れ」とか「秋晴れ」という言葉があるが、これは同じ晴れであっても、ほかの季節にくらべて空気がさわやかで、天高く冴えわたり、まことに気持ちの良い晴れ方になる。その殊更に際立った状態を指し示すための言葉であろう。

 私は、そう解釈しているのだが、単に冬の日に晴れたから冬晴れなどというのは、まことに安直な言葉遣いである。冬の日の気持ちよく晴れ上がった状態を強調したければ、「日本晴れ」と言ってもらいたい。

 せっかく晴れ晴れした天候なのに、最近は天気予報を聞いていると間違った言葉遣いで心が曇る。出鱈目な日本語を、仲間同士で使うのはいざ知らず、民間放送も含めて公共的な電波にのせるのはつつしむべきである。

 放送局もアナウンサーやキャスターはもちろん、レポーターや天気予報士にも、もっときちんとした日本語教育をしたうえで、画面に出すようにして貰いたい。それも語感を含めた教育が必要である。単に見た目が良いとか口が回るとか気が利いているというだけで採用しているようだが、近頃増えてきた意味のない無駄口はうるさいだけで、私は嫌いである。

 (小言航兵衛、99.12.30)

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