<救急飛行の安全(4)>

反面教師に学ぶ

 米運輸安全委員会(NTSB)は9月1日、ヘリコプター救急事業の安全に関する勧告を発表した。この勧告は、2月初め4日間にわたっておこなわれた公聴会の結果を集約したもので、全部で19項目から成る。内容はパイロット訓練の強化、安全管理システムの構築、気象情報の的確な判読、飛行状況のモニタリング、飛行データの集積と分析、低高度空域のインフラ整備、パイロットの2人乗務、自動操縦装置と夜間暗視装置(NVG)の装備、FAAの規制強化など。

 NTSBによれば、アメリカのヘリコプター救急は、ヘリコプター750機、民間運航会社70社、病院拠点のプログラム60、公的運営40ヵ所によっておこなわれている。運航体制は24時間休みなしで、毎年およそ40万人の患者が全米で救護される。

 ところが2008年は、ヘリコプター救急にとって最悪の年となり、12件の事故が発生、29人が死亡した。

 もともとヘリコプター救急飛行は昼夜を問わず、一刻を争う出動が求められ、救急患者に近い未知の場所に着陸しなければならず、危険な要素をはらんでいる。したがって「あらゆる種類の安全策を講じる必要がある」とNTSBはいう。

 今回の勧告19項目のうち10項目はFAAに対し、5項目は運航者に対するものだが、驚いたことに2項目は厚生省の公的健康保険メディケアとメディケイドの担当部局(CMS)に対するもの、最後の2項目が救急医療関係省庁の連邦合同委員会に対するものであった。つまり、もともとは事故原因などの調査機関が、ヘリコプター救急に関する連邦政府の基本方策と運航経費の回収方式に言及し、その見直しを求めているのである。

 ということは、航空の安全には技術と経済の両方が関係する。したがって政府や地方自治体が、救急体制の中に如何なる形でヘリコプターを組みこむか、医療面、経済面、安全面から正しいあり方を実現するための方策を策定する必要があるというのだ。

 たとえば厚生省CMSに対する勧告は、救急ヘリコプターの運航費に対する支払いを、ヘリコプターの安全性に応じて金額の段階的区別をつけるよう求めている。具体的には双発機の利用、パイロットの2人乗務、暗視ゴーグルの装備など、NTSBの勧告に従う程度に応じて、支払い金額にも差があるべきだという。

 また現場業務のあり方としては、さほど急ぐ必要のない救急事案にまでヘリコプターを飛ばしたり、2つの運航者が競争で同じ現場に飛んだり、天候悪化のために1社が出動を断ったような事案でも別の運航者に要請を出したりすることのないよう求めている。これらの話は、先の公聴会でも披露された。

 アメリカのヘリコプター救急は、ほとんど民間保険会社によって経費が支払われている。したがって公的なメディケアやメディケイドへの勧告が、そのまま民間の医療保険にまで適用されるかどうかは分からない。

 現実には、救急患者が加入している保険からの支払いになるため、保険金額に余裕があればいいけれども、治療費が高かったりすると、保険金はほとんどその方へ取られる。というより、治療費と運航費の取り合いになって、請求の早い方へ支払われるので、ぐずぐずしていると取りっぱぐれることにもなりかねない。

 さらに保険会社は、いろいろと理屈をつけて支払い金額を減らそうとする。たとえば患者の乗っていないときの飛行時間は支払いの対象から外す。これでは、現場へ出て行くときの往路の飛行時間は無償飛行になる。さらに患者を近所の病院に搬送して、そこからカラで帰投した場合も、三角形の飛行経路のうち2辺は無償飛行になってしまう。あるいは現場で患者を診るだけで、あとは救急車で搬送した場合、ヘリコプターは完全なタダ働きである。

 それでも救急患者が保険に入っていれば、まだ良い方かもしれない。保険に入っていない人には直接請求をすることになるが、その取り立てはなかなか難しい。患者の方もヘリコプターの経費ばかりでなく、治療費や入院費がかかるので、それらがあまりに高額になると自己破産に陥いる。

 こうしてヘリコプター救急は、出動の2割とか3割が運航費の回収ができないことになってしまう。このような経済問題も飛行の安全に影響を及ぼすというのがNTSBの今回の勧告である。

 こうしたことは、最近のオバマ大統領の医療制度改革にも関連するかもしれない。先進国の中で国民皆保険制度がないのはアメリカだけである。したがって4,700万のアメリカ人が保険に入っていない。総人口3億500万人の15%だが、それを改めようという改革に対して、アメリカ国民の多くが反対し、政権の支持率も急速に落ちてきた。

 反対の理由は、既得権と利益の喪失を危惧する医療保険会社を筆頭に、税金が上がるとか人種問題とか、病気とは無縁の若年層の反発などと云われるが、根本にあるのは矢張り自由競争の原理であろう。しかし、このような基本原則は病気になっても治療が受けられない人を増やし、救急ヘリコプターの事故を増やすだけではないのか。

 つまり、重い傷病者を救うのに、弱肉強食の原理はふさわしくないというのがNTSBの勧告であり、オバマ大統領の医療改革である。

 日本も先年、アメリカの自由競争原理に引きづられて、危うく医療改革と称する医療改悪へ進みかけた。政府の医療費削減、健康保険料の引き上げ、後期高齢者医療制度、医師不足問題などである。最近はやや踏みとどまったかに見えるが、新政権が誕生して今後どのような方向へ進むのか。少なくとも救急医療は、ドクターヘリを含めて、自由競争の原理だけは御免こうむりたいものである。

(西川 渉、2009.9.16)

【関連頁】

   救急飛行の安全(3)安全は回復できるか(2009.6.29)
   救急飛行の安全(2)カナダは30年間死亡無事故(2009.6.11)
   救急飛行の安全(1)米NTSBが事故対策聴聞会(2009.6.9)

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