学級崩壊の次は学校銃撃

――新知事の足を引っ張るな(2)――

 

 4月21日、米デンバー近郊のコロンバイン公立高校で、2人の生徒が銃を乱射し、15人が犠牲になるという悲劇が起こった。アメリカの新聞は「High School Massacre」(ハイスクール大虐殺)という見出しをつけて報じているが、まさしく「まさかぁ」というところである。

 この悲劇に対し、クリントン大統領は「強い衝撃を受けた」として、「武器を使わずに怒りを示す方法を子ども達に教えなくてはならない」と語った。発言の瞬間は真面目な気持をあらわしたものだろうが、一方でユーゴに対し、ステルス機や巡航ミサイルや攻撃ヘリコプターなど、最新鋭の武器を使って「大虐殺」を続けながらの発言だから「お前さん、そんなことを言う資格はあるのかい」と嗤わずにはいられない。

 日本では小渕総理が、この虐殺事件について「遺憾であるし残念であるし、改めて哀悼の意を表したい」などと相変わらずボキャ貧発言をしている。しかし近くクリントンに会うようだから、テレビ・コマーシャルじゃないが、ここはガツンと言ってやるべきだろう。「銃規制に真面目に取り組め」と。

 アメリカの銃には日本人だって随分犠牲になっていることだし、時々アメリカ旅行をする我が身にとっても物騒でかなわぬ。現に私も昨秋デンバーで2〜3泊したばかりである。それに米国からはこれまで、市場開放を初め内政干渉にも似た要求を頻繁に受けてきたではないか。たまには、こちらの要求――というよりは忠告をしてみたらどうだ。 

 

 銃規制というと必ず護身のためという屁理屈が出てくる。西部劇以来の無法者から身を護るには、こちらも武装する必要があるというわけで、銃はどこにでも売っているらしい。今から25年前のこと、弟が遺伝子研究のためにコーネル大学にいたとき遊びに行ったことがある。ニューヨーク北方のイサカ(Ithaca)という町だが、「イサカ・ガン」という銃の製造で有名なところで、そこの小さな空港では売店でタバコや雑誌と一緒に銃を売っていた。

 その銃を買って飛行機に乗ればハイジャックも簡単というのはむろん冗談だが、そのくらい容易に銃が買えて、いまだに自分で身を護らなければならないアメリカ社会は、建国から200年余り人間としての進歩がなかったことを自ら物語っているだけのこと。

「子どもは本来野獣のようなもので、教育しなければ人間にはなれない」とは、誰の言った言葉だか忘れたけれども、まさにその通りである。曾野綾子さんも最近のエッセイの中で「今どき日本の電車は走る動物園になった」と書いている。人前でキスをしたり、手を握ったり、化粧をしたり、ものを食べたりする行儀の悪い若者たちはカバやワニみたいだというのである。

 私も同感で、朝晩通勤電車に乗っているとカバやワニだけでなく、2人分の席を占拠するゴリラが我が物顔に横行し、べたべたと2匹で毛づくろいをし合うサルや大きな瘤のような背嚢を背負ったままのラクダも多い。それから大声を張り上げるカラスや無闇に大口あけて笑うホエザルも耳ざわりである。

 この行儀の悪さは、やがて牙をむいて凶暴化するにちがいない。すでに「学級崩壊」が起こっている日本の現状は、コロンバイン高校の一歩手前まできていることは確かで、このまま放っておけば「学校銃撃」(School Shooting)という惨劇に発展するのは時間の問題であろう。

 

 そのような日本の「ハイスクール大虐殺」を防止するためにも、石原慎太郎新知事のいう徳目教育が必要であることはいうまでもない。それに対して文部省や教育関係者が反対を唱えるのは何故か。おそらく文部省の役人も学校の教員も、自分たち自身が人間になりきれず、動物のままだからであろう。

 そのような動物に育てられた人間がどうなるか。インドの山の中でオオカミに育てられた子どもの例があるから、あれを見ればよく分かる。そんな昔の例を持ち出さなくても、現に電車や駅の人混みの中で傍若無人のオオカミのような連中が、男も女も含めて横行しているではないか。

 クリントンだって人間としての規範が身についていないことは、女性研修生とのスキャンダルで実証ずみ。大統領みずから本能の命ずるまま、それも仕事場で何かをやらかしたのでは、若者たちが銃を射ちたくなるのも当然であろう。

 日本でも最近のテレビは食欲と性欲――動物的な本能に訴えるだけの番組が多すぎる。視聴者が本能だけで生きているのだから当然といえば当然だが、うまいラーメンを探して日本中を歩いたとか、どこのトロは安いとか、会席料理の穴場とか、寿司の大食い競争とか、野蛮で無意味な番組ばかりである。

 しかし、動物的な本能がテレビ番組にあらわれるだけならば、まだましかもしれない。先日はあろうことか、東京高検の検事長までが本能のおもむくままの行動で世間を騒がせ、それをかばったつもりの次長検事も「浮気は活力」などと、いわずもがなの発言をして墓穴を掘り、長年待ち望んだ出世の道を絶たれてしまった。こうした現象はおそらく氷山の一角で、社会正義を振り回す法務・検察の連中も水面下では何をしているか分かったものではない。

 人間が本能だけで生きるようになったら、この世はいったいどうなるのか。といって本能のままに成人してきたテレビ局も検事も、もはや手遅れである。このうえは、もっと小さな小学生以下の子どもたちに長幼の序や謙譲の美徳など人間としての規範をきちんと教え、その子たちが大人になり親になる時期を待つほかはない。

 教育とは時間がかかるものであり、いったん崩壊した道徳律を建て直すのは決してやさしいことではない。しかし今のままでは日本がサルの惑星になってしまう。

(小言航兵衛、99.4.24)

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