<野次馬之介>

福島原発を見る(4)

 本頁は「福島原発を見る」と題しながら、自分が見たことよりも、菅首相や斑目委員長が見に行き、吉田所長が如何に対応したかといった文書を読む方に片寄ってしまった。自分の体験を書くための背景を調べているうちに、そちらの方が重大な問題をはらんでいることに気がついて、つい筆がそれてしまったのである。

 だからといって、ここで自分の話に戻っては、菅元首相のイライラした激昂ぶりを書いただけに終わってしまう。そこで今回は首相にも反論があるだろうから、その言い分を聴くために『東電福島原発事故――総理大臣として考えたこと』(菅直人、幻冬舎、2012年10月25日刊)を取り上げたい。

 その序文の中で、著者は原子の火を「プロメテウスの火」にたとえ、人類に火を教えたプロメテウスの話を小学生の頃から聞くうちに、それをコントロールするのが政治の役割だと考えるようになった。つまり「私が政治家になるきっかけの一つは核兵器というものの存在だった……核兵器の開発などは、ネズミがネズミ獲りを作ってしまったような自己矛盾だ……私が政治に携わる原点がここにある……科学技術が持つ矛盾をどうにかしたいとの思いがベースにあった」

 この大上段の思いをもって、当時の首相は原発事故に対処したのである。

 といって事故が起こるまでは、ことさら原発事故に備えるような方策を取ったわけではない。したがって、事故が起こって気がついてみると、日本には「原子力事故を収束させるための組織がない」のであった。なぜなら「事故は起きないことになっていたからだ。そういう組織を作れば、政府は事故が起こると想定していることになり、原発建設にあたって障害になる」。そんな馬鹿な屁理屈からであった。

 原子力安全・保安院という、名前ばかりご大層な役所があるが、これは「あくまで原発その他のエネルギー施設の保安検査のための機関であり、事故が発生した場合の処理の専門機関として十分な体制になっていなかった」。ということは「日本に50基以上の原発がありながら、原子力事故を収束させるための国家としての専門組織が一つもない。消防も警察もそこまでの備えはない」。自衛隊も「原発事故を収束させるための直接的なノウハウは持っていない」のである。

 これでは今回のような自然災害はもとより、よく言われるようなテロ攻撃を受けたときは文字通りのお手上げになってしまう。あれから、そろそろ3年になるが、原発再開をもくろむ日本政府はどう考えているのだろうか――馬之介だって心配になる。

 当時の首相は「原子力安全・保安院の職員は、当然原子力の専門家が中心になっていると考えていた」

「しかし説明にやって来た原子力安全・保安院の院長から説明を聞いていて、おかしな感じを受けた。一般にも言えることだが、説明している人が内容を理解しているのか、それともよく理解しないまま説明しているかは、すぐに分かる。院長の話は私には何が言いたいのか理解できなかった。そこで『あなたは原子力の専門家なのか』と訊いた」

 院長の答えは、東大経済学部の出身とのことで、これを聞いた首相は驚く。

「現場の職員は専門家なのだろうが、管理職には経産省のキャリア官僚が就いている。彼らは経済官僚だから、経済のことは詳しくても原子力については素人なのだ。私は、原子力安全・保安院のトップは原子力の専門家であるべきだと思うが、百歩譲っても院長本人が専門家でないのなら、総理への説明に来る場合は原子力の専門家を同行すべきだ」

 まったくその通り、と馬之介も考える。日本の官僚機構にはこんなバカげた幼稚なところがあって、自衛隊のいわゆる「シビリアン・コントロール」もそうだが、キャリアと称する素人が専門家を尊重せず、試験に受かっただけで出世の階段を上ってゆくようなシナの科挙制度の真似はいい加減にやめるべきであろう。

 同じような官僚体質は、東京電力にも沈積しているのではないか。そう思われるのが、元首相の次の文章である。

 原発事故の当日、東電の要請にもとづいて官邸は原子炉の冷却に使うための電源車を手配する。その結果、深夜「12時過ぎに、最初の電源車が現地に到着したとの連絡が入った。その報告を受けた時、総理執務室周辺では歓声が上がった……これで事故の拡大を抑えられる、危機は逃れられると、そこにいた全員が思ったのだ」

「しかし、歓びは束の間だった。その後分かったことだが、届いた電源車のプラグのスペックが合わず電源がつながらない、ケーブルの長さが足りない……などにより、必死で手配した電源車が役に立たなかった。私たちは、東電が電気のプロ集団でありながら、電源車との接続が可能かどうかも事前に分からないことに愕然とした」

 こうして菅首相の不信感とイライラはいやが上にも高まってゆく。最早じっとしてはいられない気持ちが昂じて、「朝になったら福島へ行くこともあり得る」と考え、秘書官に手配を指示した。同じ頃、現地では吉田所長がベントの準備を指示し、官邸にもベントを了解して欲しいとの要請がきた。

 どのくらいでベントができるのかを訊くと「準備に2時間ほどかかる」というので、官邸は「午前3時頃にはベントができるのだなと認識した」

 そのことを3時12分から枝野官房長官が記者会見で発表した。その中で、総理が「6時10分に出発して福島の現地を視察することも発表された」

 その発表前に、官邸では側近たちから慎重意見が出された。「総理が行くと、さらに混乱する」「危機の際は指揮官が陣頭指揮を執るべきか、どっしりと座って部下に任せるべきではないか」などの意見である。

 しかし、それらを押し切って現場へゆくことになったのは「とにかく、現場の様子が分からなかった。さらには官邸の意向が現場へ届いているのかどうかも、分からない。官邸に来ている東電の社員に何を質問しても即答できず、回答が来るまでに時間がかかっていた。さらに、その回答に対して再質問すると、それについても即答できないという状況が続いていた。現場から東電本店、本店から保安院、保安院から官邸、あるいは本店から官邸にいた東電の社員といったかたちで、『伝言ゲーム』が行われていたのである。その伝言が正確であればまだいいが、どこかの段階で重要なことが落ちていたり、故意ではないにしろ、歪んで伝えられている可能性もあった」

「そこで、とにかく短時間でも現地に行って現地責任者に話を聞こうと決めたのである」

「午前5時頃、私は官邸地下の危機管理センターに下りた。すると福山副長官から、ベントがまだ始まっていないと告げられた。私はとっくに始まっていると思っていたので驚いた。後で知ったことだが、手動でないと弁が開かず、放射線量が高くて作業が進まないためだった」

「6時14分、私は官邸の屋上から自衛隊のスーパーピューマで出発した。ヘリコプターには、原子力安全委員会の斑目委員長も同乗したので、さまざまなことを質問した……はっきり覚えているのは『水素爆発の危険はないのか』と訊くと、『水素が格納容器に漏れ出ても、格納容器の中には窒素が充満しており、酸素はないんです。だから、爆発はあり得ません』と委員長が断言したことだ」

「それまで、東電の社員、保安院の職員たちは『分かりません』と言うばかりだったので、私たち政治家は苛立っていたのだが、この時の斑目委員長は自信を持って『爆発はあり得ません』と言ったので、私は安心した。しかし、これは大きな間違いだった」

「福島第1原発に着いたのは、7時12分だった。1時間ほどかかったことになる。ヘリコプターはグラウンドのようなところへ降り、私たちは用意されていたバスに乗り込んだ」

「東電の武藤栄副社長が隣に座ったので、なぜベントができないのかと質問すると、口ごもるだけなので、私はつい声を荒らげてしまった。この時、苛立っていたのは確かだ。私はこの時点で、この事故は国家存亡の危機になるという認識を抱いていた。その危機を回避できるかどうかはベントにかかっている。こちらはそういう危機感を持ってやって来たのに、責任者であるはずの副社長が煮え切らない返事なのだ。ベントができないのなら、その理由を説明してくれればいいのだ。だが、何もはっきりと言わないので、声が大きくなってしまった」

「しばらくして、免震重要棟に着いた。入口が二重構造になっているのだが、最初の扉を入ったところで、いきなり『早く入れ』と怒鳴られた……そこはもう戦場だった。廊下には作業員が溢れていた。床に寝ている者が何人もいた。毛布にくるまっている者もいれば、上半身をはだけている者もいた。ほとんどが、うつろな目をしていた。野戦病院のようだ、と私は思った」

「免震重要棟は現場作業員が仕事を終えて休む場所となっていたのだ。過酷な環境のもとでの作業が夜を徹して行われたことが察せられた」

「倒れている者が多く、廊下はひとりが歩けるくらいのスペースしかなく、私たち一行は案内されたほうへ進んだ。会議室は二階と聞いていたので階段へ向かおうとしたら、いつの問にか、何の行列か分からなかったのだが、その最後尾に並ぶことになってしまった。最初は単に廊下が混雑していて前へ進めないのだろうと思い、横に抜け出るスペースもないので、しばらくそのまま並んでいたのだが、それは作業員が放射線量を計測するための列だと分かった。事故にしっかり対応することと、作業にあたる人の安全性の両立を常に考えておく必要を強く感じた」

「『どうなっているんだ。こんなことをしている暇はないだろう。所長に会いに来たんだ』と私は大声で言い、列から離れて作業員たちを掻き分けるようにして進み、二階への階段を見つけた」

「吉田所長は、私がこれまで官邸で接してきた東電の社員とはまったく違うタイプの人間だった。自分の言葉で状況を説明した。『電動でのベントはあと4時間ほどかかる、そこで手動でやるかどうかを1時間後までには決定したい』という説明だった」

「当初の話では、ベントは午前3時のはずだった。その予定時刻からすでに4時間が過ぎている。それをさらに4時間も待てという。そもそも、ベントをしなければならないと言ってきたのも東電のはずだ。『そんなに待てない、早くやってくれないか』と言うと、吉田所長は『決死隊を作ってやります』と言った。副社長は口ごもるだけではっきりしないが、この所長は違った」

「私がこの時点で視察に踏み切ったことでの最大の収穫は、現場を仕切っている吉田所長がどのような人物なのか見極めることができた点だ。何しろ震災直後から、私のもとへは確かな情報がほとんど来なかった。こちらの指示も、現場で対応にあたっている人たちに本当に伝わっているのか分からない。何が伝わり何が伝わっていないのかも分からない。物事を判断するには、指示がしっかり当事者に伝わるか否かが大事だ。それが不明確だったので直接確かめておきたかった」

「原子力安全・保安院もどこまで状況を把握しているのか、分からない。生の情報をいちばん持っているはずの東電も、現場から私に伝わるまで何人もが介在し、結局だれが判断しているのか、誰が責任者なのか、聞いても分からなかった。すべてが匿名性の中で行われていたが、吉田所長と会って、『やっと匿名で語らない人間と話ができた』という思いだった」

 菅首相を乗せたヘリコプターが福島第1原発を離陸したのは8時5分。1時間ほど発電所にいたことになる。そのあと、ヘリコプターは宮城と岩手の被災地の上を飛んだ。

「この視察は福島原発だけではなく、上空からではあるが、津波被害の実態を自分の目で確認できた点でも、その後のプラスになった」

「官邸に戻ったのは10時47分だった」

 14時半頃「格納容器の減圧に成功した」との報告が入った。ひと安心と思っていたところへ16時過ぎ「すぐにテレビを見てください」といわれ、首相は1号機原子炉建屋の水素爆発を知った。世界中を驚かせたニュース映像が官邸よりも早く、全世界に伝わっていたのである。

 こうして首相みずからの著書を読むと、最高権力者が大声で怒鳴ったり、どたばたと走り回らねばならない実態からして、日本は国家としての危機管理体制が全く成っていないことがよく分かるというもの。あれから3年ほど経って、今は多少とも改善されていることを願うばかりである。(後日へ続く……)

(野次馬之介、2014.1.21)


菅首相が官邸に戻った後の15時36分
原子炉1号機の建屋が水素爆発を起こした
そのことを、首相はテレビ放送で知った

【関連頁】
    <野次馬之介>福島原発を見る(3)(2014.1.19)
    <野次馬之介>福島原発を見る(2)(2014.1.16)
    <野次馬之介>福島原発を見る(2014.1.15)

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