ドクターとミスター

 来る11月5日の日本エアレスキュー研究会では、ロイヤル・ロンドン・ホスピタルのリチャード・アーラム博士の特別講演がおこなわれる。博士は1989年、同病院のヘリコプター救急システム(HEMS)を創設し、この10年間その最高責任者として指揮を執ってきた救急外科医である。そして2か月前に退職したとのことで、先日ロンドンで会ったときはクロムウェル病院の名刺を貰った。

 HEMSの活動ぶりについては、この先生の編纂した「トラウマ・ケア――ロンドンHEMSの全貌」というA4版245頁の大部の本があり、私も2年前に買って読んでいた。

 ロンドンで夕食を共にしたときは、きわめて格調の高い正統英語で、日本人のためにゆっくり話をしてくれた。随所にイギリス人らしいユーモアがはさまれ、エアレスキュー研究会の特別講演には打ってつけの人ではないかと思う。

 

 その夕食に行く途中、博士の立派なジャギュアで走っているとき「レストランはこの前方にあるけれど、途中にアメリカ大使館があるから回り道をしていこう」といってハンドルをきり、わざわざ遠回りをしたのは可笑しかった。

 そして大きな屋敷の前の銅像を示しながら、アメリカ大使館はこの貴族の所有だが、あるときアメリカ政府からその土地と建物を売って貰いたいという申し入れがあった。それに対して、こちらの返事は昔アメリカに取り上げられた土地を返してくれるなら売ってもいいというもの。「その土地はどこだと思う? マンハッタンですよ」

 トラファルガー広場にさしかかったときは、中央のネルソンの銅像を見上げながら、ナポレオンにやられたことを悔しがって見せた。ネルソン提督はナポレオンのイギリス上陸作戦を阻止したものの、のちに海戦で戦死する。その後ナポレオンも欧州諸国との戦いに敗れてエルバ島へ流される。「あのとき息の根を止めておくべきだった。生かしておくものだから、10年後にまた攻めてきた」

 200年前の歴史をついこの間のことのように話すのは、無論半分は冗談であろうが、半分は本気のようにも見えてユーモラスである。

 ちなみにトラファルガー広場にはHEMSヘリコプターも着陸して救急活動をしている。といっても中央のネルソンの銅像が立っている塔は高さ70mもあろうか。その足もとは、広場といっても大して広いわけではない。こんなところによく着陸できますねえといったら、「なに、ローター直径の2倍の大きさがあれば、どこにでも降りますよ」 という返事だった。

 ところで日本に戻ってアーラム博士の名刺をよく見たら、自分の名前の頭に「ミスター」という称号をつけている。なぜドクターとしないのか、不思議に思っていたところ、養老孟司教授の『自分の頭と身体で考える』(PHP研究所、1999年10月刊)の中に次のような一節が出てきた。

<女王陛下の晩餐会に大勢のお医者さんが呼ばれて行ったとする。到着したお客さんの名前を執事が呼び上げますね。そのとき「ドクター何々、ドクター何々」と呼んでいきながら、突然「ミスター誰々」って出てくるんですよ。そのミスターは誰かというと、外科医です。外科医の称号は未だに正式には「ミスター」なんです。「ドクター」というのは内科医の称号。直接に身体をいじる職業は、下等な職業とされていたんです。だから産婆、解剖医、外科医、床屋、ペデュキア師などみんな同じ立場の職業です>

  いうまでもなく養老教授自身が解剖医であり、何もこれらの職業を蔑んでいるのではない。独自の心情を語っているわけだが、アーラム博士はなるほど英国の伝統にのっとっていたのである。そういえば、かつては床屋が外科医を兼ねた「床屋外科医」なるものがあり、職業的外科医は床屋から分かれたとも聞いた。赤青白のひねり飴のような床屋の標識も、動脈、静脈、包帯を象徴しているとか。

 余談ながら、私の末弟が外科の出身で、今は麻酔医として病院勤務をしている。そこで、念のために外科医をミスターを呼ぶかどうか訊いてみると、そういう肩書きの使い方について知ってはいるが、日本では見かけないという返事がメールで送られてきた。

<医師にはもともと内科医、すなわち薬を処方して治す医師しかなく、刃物を使って何かをするのは床屋の仕事だったと聞いています。

 日本では内科、外科と言いますが、元来は本道(ほんどう)科、外道(げどう)科と称していたらしい。本道が薬を使う人で、外道は切ったり縫ったりする人ですが、外道ではあまりにもひどいというので外科になり、それに対応して内科と呼ぶようになったとのことです。

 イギリス人に知り合いがないせいか、Mr.という肩書きの名刺は見たことがありません。アメリカでは通常名前の後にMDと入れています。名乗りも普通は"I am Dr. XXX"と言い、ステータスとしてのドクターを日常的に使用するようです。なお「女性の外科医は何と称するのか。やはりミスターですか」という冗談が伝説としてあります。

 日本人は、医師で大学教授の場合は何々大学教授という肩書きを名刺に入れています。そして自分の専門科の名称は左下の所属の所に小さく入れる人が多いようです。開業医では学位のある人はたいてい医学博士と入れています。が、われわれ勤務医はあまり博士とは入れません。どうでもいいことですから>

 話を戻して、アーラム先生は1959年にロイヤル・カレッジ・オブ・サージャンで学位を取り、当初はドクターと称していたが、1970年からミスターに切り替えたというFAXが、私の質問に対して送られてきた。ほかに豪州、米メイヨークリニック、それにドイツでもドクターの学位を取っている。

 またケンブリッジ大学ではマスターシップの学位を取ったが、これはドイツの大学教授に相当する。したがってドイツの友人クグラー氏が自分のことを「プロフェッサー・ドクター」と呼んだのは、そのせいではないか。ここで注釈を入れると、私をアーラム博士に紹介してくれたのはADACの総支配人クグラー氏で、そのメモに「プロフェッサー・ドクター・アーラム」と書いてあったのである。

 さらにアーラム夫人はドイツ人だが、ドイツの大学で「フラウ・プロフェッサー・ドクター」のタイトルを持つ。これがオーストリアならば「フラウ・ドクター・ドクター」と変わる。女性だから頭にフラウを冠するところは、先に末弟が書いてきた冗談としての質問の真面目な回答になるかもしれない。

 最後にアーラム先生も書いている。「タイトルなんぞは人を混乱させるだけで、どうでもいいことです。貴君が私のことをミスターと呼ぼうと、ドクターと呼ぼうと、プロフェッサーと呼ぼうと、いっこうに構いません。いずれにせよ、私は外科医なんだから!」

 (西川渉、99.10.24加筆/99.10.22)

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