<ライト兄弟>

「ザ・エアプレーン」

 先日、別の本を探すために本箱を調べていたところ、"THE AIRPLANE"というペーパーバックが出てきた。著者はワシントン航空宇宙博物館の学芸員(キュレイター)。出版社はハーパーだが、本は「スミソニアン・ブックス」シリーズのひとつ。見返しに私自身の2009年11月27日という書きこみがあるから、多分この日に博物館へ行き、その記念に買ったのであろう。

 内容はライト兄弟が幼少の頃、ヘリコプターのおもちゃ、つまり竹とんぼで遊んだ話から、晩年の特許を守ろうとしたり、フライヤーをイギリスに貸し出したりした話が書いてある。むろん昔話ばかりではなく、SSTはもちろん、ボーイング777や787も登場する。しかし全巻340頁では膨大に過ぎるので、ライト兄弟の初飛行の場面だけを読んでみたい。

 以下、例によって、できるだけ正確な超訳である。


2008年刊

 アメリカ大西洋岸に夜明けが近づいていた。あかね色の空にカモメが舞い、その鳴き声が絶え間なく聞こえてくる。ノースカロライナ州のいつもと変わらぬ光景だが、間もなく人類の歴史が大きく変わろうとしていた。

 1903年12月17日のこと、冷たく強い風が潮の香を含んで吹きつけてくる。そこへ日の出の光が矢のように射しこみ、砂丘の上を這うように生える枯れ草に凍りついた霜を溶かしはじめた。

 背後に、太陽の光を浴びたキル・デビル・ヒル。その砂丘を下ったところに、平らな砂浜が海に向かって広がる。風をさえぎるものは何もないが、辺りが明るくなった頃、7人の人影と奇妙な機械がそこに現れた。

 うち2人はウィルバーとオービルのライト兄弟。あとの5人は海岸の水難救護所から手助けと見物にきた若者たちであった。

 ライト兄弟は機械に顔を寄せ、隅々まで慎重に点検した。30歳前後の彼らは3年ほど前、このへき地の漁村キティホークへ遠いオハイオ州からやってきて、グライダーの試験飛行を続けてきた。

 グライダーにとって、ここは広くて障害物がなく、砂がやわらかく、風が一定方向へ吹いているという利点があった。


キティホークへ向かう日の朝、ヴァージニア・ビーチの
ホテルの窓から見た大西洋の日の出(2013年10月22日)

 この飛行機械は、兄弟の長年にわたる努力の積み重ねから生まれた。人が空を飛ぶためには如何なる形状が最適かを追い求め、その結果を木材とワイヤと留め金と綿布で形づくったものである。

 しかし、空を飛ぶなどという大それた望みは、本来ならば神のものであって、人間には許されぬことかもしれない。実際、これまでのところ、この罪深い野心を抱いた人びとは失敗を重ねるばかりで、大けがと恥さらしという二重のリスクを背負う結果に終わっていた。中には命を落とすものもいたほどだ。

 人を乗せて空を飛ぶ機械など、愚か者か気の違った者が夢想する幻想にすぎないというのが、大方の見方であった。しかし、鳥は飛ぶ。昆虫も飛ぶ。コウモリも飛ぶ。さらにライト兄弟が、ここキティホークで実験をかさねてきたグライダーも飛ぶではないか。

 もとよりグライダーの滑空は飛行ではない。真の飛行は高いところから跳び降りて無事に着陸できるだけのものではない。自らの動力で離昇し、操縦可能な状態で飛びつづけられるようでなければならない。

 ライト兄弟が「フライヤー」と名づけた飛行機は、3日前に準備が整った。兄弟はコインを投げて順番を決め、最初にウィルバーが飛ぶことになった。しかし彼は、機が地面を離れるや、機首を上げすぎて失速し、砂の上に墜ちてしまった。

 そのときの破損部分を修理して、今日はオービルの飛ぶ番であった。だが、風が強い。不安をかかえた2人は、それでも決行することにした。このくらいの風ならば、なんとかしのぐことができるというのが、彼らの判断であった。

 しかし晩年、オービルはこのときの決心は無謀だったかもしれないとふり返っている。それまでの野心家たちは、誰もが無風または微風の日を選んで飛んでいたのである。

 オービルは厳粛な顔つきで、ウィルバーの手を握った。ウィルバーの顔は興奮の余り紅潮していた。風のために砂粒が顔にあたるのを意識しながら、オービルはフライヤーの翼によじ昇り、操縦装置のひとつでもある木製の台(クレードル)の上に腹ばいになった。そして眼の前の2本の操縦桿を握りしめた。

 ウィルバーと、水難救護所から手助けにきたジョン・ダニエルスが12馬力のエンジンに電気コイルを取りつけ、それを地上の乾電池につないだ。コイルから電気が流れ、エンジンが音を立てて始動する。

 応援の2人が砂を踏んで機体後方のプロペラに近づき、その羽根を、ウィルバーの合図で力いっぱい回転方向に引っ張ると、プロペラが勢いよく回り始めた。次いでウィルバーが走り寄って、コイルを外す。

 機上のオービルがレバーを動かして、機体を引き留めていたケーブルを外した。同時に、機上の自動記録計が作動しはじめた。

 フライヤーが木製のレールの上を滑走する。その横をウィルバーも翼端を支えながら走る。

 オービルは兄の失敗を思い起こし、昇降舵を上げすぎないように注意して、フライヤーをゆっくりと離昇させた。ピッチ・コントロールが敏感に過ぎるのだ。が、細心の操作にもかかわらず、フライヤーは飛んでいる間中、機首を上下に振りつづけた。

 とはいえ、フライヤーは距離にして120フィートを飛行した。飛行時間は12秒であった。

 ここに歴史がつくられた。史上初の真の飛行が実現したのである。


初飛行に向かって走りだしたフライヤー

 それは、地上で見ている人びとにとって、異様なほどゆっくりした飛行であった。フライヤーは毎時32マイルの巡航速度で飛ぶように設計されている。それに対して、このときの向かい風は毎時平均25マイルだったから、魚が急流に逆らって泳ぐように、フライヤーの対地速度は毎時7マイルになる。ウィルバーが走って追いつけるような速度であった。

 その前に、コイルをつないだダニエルスは大急ぎでカメラのところへ戻ると、フライヤーが地面を離れた直後の写真を撮った。ウィルバーが追いかけるのを諦め、体をぎごちなく曲げて心配そうにフライヤーの方を見ている象徴的な場面である。

 これで、人類の空飛ぶ夢が実現した勝利の瞬間が乾板の上に焼き付けられた。これほど貴重な写真は、歴史の上でもほとんどないといってよいであろう。


人類の歴史上、最も貴重な写真のひとつ

 その日ライト兄弟の飛行は合わせて4回おこなわれた。どの飛行も高低差のない平地で、兄弟が設計し製作したエンジンの力だけで離陸し、飛翔をつづけたのである。

 高度は平均10フィート。最長飛行距離は最終回、ウィルバーの2回目の飛行であった。記録は59秒間、852フィート(260メートル)。向かい風の速度を勘案すれば、1マイル以上を飛んだことになる。

 その4回目の飛行を終わって、彼らは意気揚々と機体を運び、格納庫のそばの安全と思われるところに置いた。そして大声で、結果について話し合っているとき、フライヤーに突風が襲いかかった。機体を持ち上げて、ひっくり返したのである。

「みんなが駆け寄って、機体の転がるのを止めようとした。けれども、間に合わなかった」と、オービルが後に書いている。「体が大きくて力持ちのダニエルスも、機体に取りついたまま持ち上げられ、2枚の昇降舵の間にはさまれたまま転がって、最後は砂の上に放り出され、大けがをした」


初飛行のおこなわれた平地をキル・デビル・ヒルの丘の上から見る
フライヤーは道路の曲がり角にある記念碑の地点から離陸した
そこから右上に斜めに並ぶ白い石碑が1〜4回目の接地点
写真中央の小屋はライト兄弟の復元された宿舎と格納庫
写真右端の建物には兄弟が使った自作の風洞など
初飛行にちなむ記念品が数多く展示されている

 こうして、世界最初の飛行機は、もはや二度と飛べないほど壊れてしまった。けれども、その目的は間違いなく達成された。

 ライト兄弟は、大破した機体を自宅に持ち帰り、地下室に保管していたが、25年後ふたたび組み立てられ、本来の姿を取り戻した。そして今日、スミソニアンの最も貴重なコレクションのひとつとして、ワシントン航空宇宙博物館の正面ホールに展示されている。 

 

 


ワシントン航空宇宙博物館の正面入口ホールの
高いところに吊下げ展示されているライト・フライヤー

【関連頁】

   「キル・デビル・ヒル」(2013.12.11) 
   「わが心のキティホーク」(2013.12.6) 
   「航空人の聖地」(2013.12.3)
   ライト兄弟が飛んだ日(2012.12.24)
   ライト兄弟初飛行100年(日本航空新聞、2004.2.16)
   ライト兄弟機が展示されるまで(2003.7.26)

   

(西川 渉、2013.12.26)

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