<ヘリヴィア>

ヘリコプターの父 

(ヘリヴィア=ヘリコプタ+トリヴィア)

ヘリコプターの代名詞

 「シコルスキー」という言葉を聞けば、ヘリコプター関係者でなくとも、多くの人がヘリコプターを想起するのではあるまいか。シコルスキーはヘリコプターの代名詞みたいなものといえるかもしれない。

 そのイゴール・シコルスキー(1889〜1972)がロシアのキエフで初めてヘリコプターをつくったのは1910年であった。しかし、このヘリコプターは安定が悪く、操縦もうまくできなかった。シコルスキーはその後も、重量を100ポンド削ったり、ローター直径を増やすなどして改良を加えたが、いずれも成功に至らず、諦めざるを得なかった。

 シコルスキーはヘリコプターの失敗に落胆することなく、今度は一転して固定翼機に目をつけた。小さな小型飛行機をつくって、自分がそれに乗り、8分間の飛行に成功する。けれども8分後に急旋回をしようとして墜落、壊れてしまった。

 シコルスキーの父親は有名な心理学の教授であった。その父が自宅を抵当に入れ、息子の実験資金をつくってくれた。その結果、固定翼の試作6号機が1912年モスクワで表彰されることになる。さらに22歳のとき、世界最大の飛行機を計画し、製作に取りかかった。それはエンジン4基をそなえ、大きなガラス張りの展望台のようなキャビンでは食事をとることもできた。この「グランド」と名づけられた大型機はロシア皇帝ニコラスU世の謁見を受けるなどして、シコルスキーは24歳で世界的に有名な航空技師となった。

ロシア革命でアメリカへ亡命

 第一次世界大戦中は爆撃機をつくっていたシコルスキーだが、1917年ロシア革命とともに母国を脱出、アメリカに亡命する。そして1923年、ニューヨークでシコルスキー・エアロ・エンジニアリング社と呼ぶ航空機製造会社を設立した。同社は双発輸送機をつくったのち、パンアメリカン航空のためにS-38双発飛行艇を開発した。この飛行艇は世界速度記録や世界高度記録をつくったが、1929年の世界恐慌で会社が財務上の危機に陥り、閉鎖に至る。

 そのためシコルスキーはコネチカット州ストラットフォードへ移り、シコルスキー・アビエーション社を設立した。ここでもシコルスキーは水上機や飛行艇を開発、米海軍が沿岸警備や輸送のために16機を調達した。

 1933年にはS-40フライング・クリッパーが完成する。総重量17トン。世界最大の水陸両用機で、パンアメリカン航空に採用された。乗客20人と郵便物1,000ポンドを搭載して9時間の航続性能を有する。同機はやがてパンアメリカン・クリッパーS-42に発展、大洋横断も可能な長航続性能によって、国際航空路の開拓を進めていった。S-42は1934年、速度やペイロードに関する10種類の世界記録を樹立している。


シコルスキーS-42パンアメリカン・クリッパー飛行艇

ヘリコプターに再挑戦

 こうした成功の中で、シコルスキーは1937年、社内の重役会議に、もう一度ヘリコプターを開発したいという計画を提案した。その当時、アメリカには事実上ヘリコプターは存在しなかったし、ヘリコプターに関する知識もほとんど理解されていなかった。

 しかしシコルスキーはヘリコプターの将来性について限りない期待を抱いていた。「ヘリコプターこそは人類の考え出した最も有能な移動手段である」と。

 重役会はシコルスキーの提案を受けいれ、その後2年間に25万ドルを費やして研究開発作業が進められた。

 こうして1939年、若き日のイゴール・シコルスキーがキエフで初めてヘリコプターをつくってからほぼ30年、ようやくにしてヘリコプターの開発に成功する。それがVS-300であった。


VS-300
ワイヤーで地面につないだままの浮揚試験

 エンジンは4気筒75馬力の空冷式。Vベルトとベベル・ギアから成るトランスミッションで、直径8.5m、3枚ブレードの主ローターを駆動する。機体はむき出しの鋼管熔接構造。降着装置は3つの車輪がつき、操縦席は吹きさらしのままであった。

 VS-300は1939年9月14日からワイヤーで地面につないだままの浮揚試験をくり返したのち、1940年5月13日ワイヤーを外してシコルスキーみずから操縦桿を握り、真の飛行に成功する。この初飛行はほんの数分間、数インチの高さに上昇しただけだったが、技術者たちは機体の周りの地面に這いつくばって、すべての車輪が同時に完全に地面から離れたのを確認した。

 これが歴史の幕を開ける飛行となったことは間違いない。VSー300はその後改良を重ね、さまざまな飛行記録をつくっていった。その中には時速132キロという速度記録もあった。1941年4月15日には1時間5分4秒の滞空記録を生み、その2日後、脚にゴム製のポンツーンをつけて離着水にも成功した。5月6日には滞空1時間32分26秒という記録も残している。


自由飛行中のVS-300
シコルスキーは何故か、いつも山高帽をかぶって操縦していた。
いつぞや、何年も前のことだが、シコルスキー社の幹部に
山高帽の理由を訊いたことがある。
後世に残る写真写りを考えてのことかと思ったが、
明解な答えは得られなかった。

ビルマ戦線で負傷兵を救出

 このあたりから、米陸軍もシコルスキー・ヘリコプターに注目するようになり、実験用にXR-4を発注する。1942年1月14日に初飛行した同機はVS-300の2倍の出力を持ち、大きさも2倍。1942年4月20日には、コネチカット州ブリッジポートからオハイオ州デイトンまで1,200キロの長距離を飛んで米陸軍に納入された。

 さらに1943年8月18日にはワスプ・ユニオール・エンジン(450馬力)を装備するR-5が飛び、同年10月15日にはR-4と同じ大きさで性能と外観を改めたR-6も飛行した。これら3種類のヘリコプターは第二次大戦中に400機以上が生産され、米陸軍、海軍、沿岸警備隊、英海軍、英空軍が採用、中国やビルマの戦場に投入された。

 その中で、ヘリコプター初の作戦行動はビルマ戦線であった。1944年4月、米陸軍の連絡機が日本軍の銃撃を受けて不時着、乗っていた3人がけがをした。この3人の居どころが別の偵察機によって判明すると、直ちにR-4ヘリコプターが飛び、3人を1人ずつ救い出して近くの飛行場へ搬送、C-47輸送機に受け継いだ。その後もヘリコプターは、負傷兵救出のために数日間で18回以上の出動をしたという。


第2次大戦時のシコルスキーR-4ヘリコプター

主婦が2人の台所

 イゴール・シコルスキーが実務を引退したのは1957年5月のことである。引退後は会社の相談役となった。

 ヘリコプター工業は、シコルスキーによって生まれたといってよいだろう。たとえば1955年から58年までの3年間に、シコルスキー社は720機のヘリコプターを量産しているが、「ヘリコプターの父」といわれる所以(ゆえん)でもある。

 シコルスキーのつくるヘリコプターは、今に至るも主ローターがひとつというシングル・ローター機である。この形式にシコルスキーがこだわった理由は何か。「2つのローターをつけると、同じ台所に2人の主婦がいるようなもので、お互いに意見が合わず、おいしい料理ができない」からというのであった。

(西川 渉、2016.6.4)

【関連頁】

  <ヘリヴィア―4>近代化への歩み(2016.6.2)
  <ヘリヴィア―3>初めて人を乗せて飛ぶ(2016.5.26)
  <ヘリヴィア―2>ローター機構の進歩(2016.5.21)
  <ヘリヴィア―1>らせん翼の着想(2016.5.18)
  <ヘリワールド2016>ヘリコプター博学知識(2015.11.26)

    

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