<ヘリヴィア>

ベル・ヘリコプター 

(ヘリヴィア=ヘリコプタ+トリヴィア)

民間ヘリコプターの誕生

 ヘリコプターが民間証明を取得したのは1946年3月8日。ベル47小型機がアメリカ航空局から史上初めてヘリコプターの商業飛行を認められたときである。

 ここに至るまで、ベル・エアクラフト社は第二次大戦中、キングコブラなどの戦闘機や米国初のジェット機、エアラコメットを開発、後には1947年10月14日、史上初めて音速を超えたベルX-1やX-5といったロケット機をもつくった。

 ベル社によるヘリコプターの研究は1940年代初めから始まった。アーサー・ヤング技師の考案になるスタビライザーバー(安定棒)と2枚ブレードのシーソーローターを組み合わせ、1943年初め試作機を初飛行させた。同機は主ローターが直径10.06m、尾部ローターはひとつ、エンジンはフランクリン165馬力であった。


ベル47ヘリコプター

アーサー・ヤング

 アーサー・ヤングは1927年プリンストン大学数学科を卒業したが、風車の空力的効果について書かれた本を読み、ヘリコプターに関する興味を持つようになった。当時ヘリコプターは、原理は簡単でも実現が難しく、多くの発明家たちの功名心を掻き立てる課題となっていた。

 ヤングは風車の構造を利用して、ヘリコプターが実現できるのではないかと考えた。以来10年以上にわたって、ブレードの形状をさまざまに変えながら研究と模型実験を続けることになる。

 当時、研究者を最も悩ませたのは、ヘリコプターの飛行中の安定を如何にして保持するかという問題であった。そこからヤングは主ローターにスタビライザーバーを組み合わせる方式に思い至る。それは細長い棒の両端におもりをつけ、ローターの回転に対してジャイロスコープのように作用し、回転面を安定させる。これによってマストが傾いても、ローター回転面は変化しないばかりか、バイロットの望む方向へ傾けることが可能になり、ヘリコプターの操縦にも役立つというものだった。

 これこそはアーサー・ヤングが発明し、ベル・ヘリコプターが採用した「スタビライザーバー」の原理である。ヤングはスタビライザーバーをつけたへリコプターの模型をつくり、多くの人びとに見せて歩いた。いくつもの航空機メーカーを訪ねて模型の飛行ぶりを見せ、実機の製作に必要な資金援助を要請した。陸軍にも行ったけれど、資金を出そうという人はなかなか現れなかった。


模型実験をするアーサー・ヤング

ローレンス・ベル

 ところが、ヤングの模型実験の話を聞いたベル社の創設者ローレンス・ベル(愛称ラリー)は、以前にドイツで見たフォッケ・へリコプターの強い印象を思い起こし、ヤングの模型を見たいと言い出した。その招きでアーサー・ヤングが手製の模型をかかえてやってきたのは1941年9月3日――ベルとヤングの運命的な出会いの日であった。

 ベルの目の前で、ヤングの模型は縦横に、しかも完全に制御された状態で飛び回った。それを見たベルは、すぐに人の乗れるような実機を作ろうと考える。ヤングも初めからラリーに好感を持った。そこで2人は話し合い、ヤングは自分の持っていた特許をベル社に譲り渡し、ベル社は2機の実機をつくるための設計費、開発費、製造費などを負担することで合意した。このときラリーは試作2号機を複座にして、自分が同乗できるようにしてもらいたいという希望を出している。

 契約が成立して、ヤングがベル社で仕事をはじめたのは1941年11月24日――日本でいえば昭和16年のことで、まさに日米開戦の2週間前であった。


ローレンス・ベル(1894〜1956)

道楽とみなされた開発作業

 とはいえ、この製作は決して容易なことではなかった。ヤングは本物の航空機などつくったことはなかったし、ベル社の方も回転翼の経験がなかったからである。そのため時間も手間も費用も予想以上にかかる。おまけに日本との戦争がはじまって、工場は昼夜兼行の3交替制になり、戦闘機の製造に休むことなく追われるようになった。

 多忙をきわめる会社の中で、道楽のようなへりコプターの開発は白い目で見られた。こんな邪魔な計画はやめてもらいたいというのが会社全体の雰囲気だった。

 だが社長だけは別で、へりコプターの開発を始めて半年後の1942年6月、作業工場を別の場所に移した。そこでヤングは改めて新しい開発チームを編成し、戦争状態にあった主工場の喧噪を逃れ、20〜30人の作業員だけで落ち着いて仕事ができるようになった。

 モデル30と名づけられたベル・ヘリコプターの第1号「シッブ1」が完成したのは、それから半年後のことである。胴体は木製の桁にマグネシウム材がリベット付けされ、ローターブレードはモミとバルサ材に、スチール強化の前縁をつけた羽衣張りであった。

 エンジンは165馬力のフランクリン。トランスミッションを介して直径9.7メートルの主ローターと、テールブーム先端の小さな尾部ローターを駆動する。そのトランスミッションは、ヤングの模型についていたトランスミッションをただ大きくしたような代物で、そんなもので空を飛べるのかと、主工場の技術者や役員たちは、誰しも疑いの眼で見ていた。


スタビライザーバーをつけたモデル30の試飛行
機体はまだロープで地面につながれている
四方に大きく張り出した脚は当時
スパイダーレッグ(蜘蛛足)と呼ばれていた

フロイド・カールソン

 「シップ1」のロールアウトは1942年12月18日、初飛行は12月29日だった。操縦したのはアーサー・ヤング自身である。まだヘリコプターのテスト・パイロットがいなかったからで、長いロープで機体を地面につないだままだったが、うまくホバリングをすることができた。もっとも彼にとって、地面を離れるのはこれが初めてだった。

 翌年1月になって、ベル・エアクラフト社のテストパイロットの中から2〜3人がヘリコプター専任として指名された。そのひとりがフロイド・カールソンだが、彼はその後のベル・ヘリコプターの開発に大きく貢献した。1943年6月23日、モデル30の真の初飛行を操縦したのもカールソンである。このとき「シップ1」は初めてローブを解かれ、自由に空を飛んだ。

 それまでは地面につながれたままホバリングを繰り返し、そのたびに手直しが加えられた。そして、いよいよ自由飛行が可能になり、速度を上げてゆくと、今度は激しい振動か出るようになった。これまでの飛行データを調べ、数学的な計算をした結果、振動の原因はローターの取りつけが柔らかすぎるためということが判明し、手直しをしたところ、時速110キロを越える速度が出せるようになった。


「シップ1A」
事故で壊れた1号機(シップ1)を修復し、
脚と尾部ローターシャフトを再設計したもの
フロイド・カールソンがホバリング飛行をしている横で
アーサー・ヤングが様子を見ている

複座の2号機へ進む

 シップ1のテストか続き、手直しが繰り返されている間に、2号機の製作が進んでいた。同機はカールソンの意見によって、方向操縦を足のペダルでおこなうように改められた。そしてラリー・ベルとの約束通り、キャビンは複座になっていた。

 その完成が近づいた頃、1号機が事故を起こす。カールソンが操縦していたとき、着陸時のフレアが大きすぎて、尾部が地面に当たって跳ね上がり、前につんのめるような恰好で落ち、横転したのだった。直ちに復元作業がはじまったが、その完成前に「シップ2」の飛行が始まった。1943年秋のことである。

 早速シップ2の同乗飛行を体験したラリー・ベルは大いに自信を得て、44年5月、報道陣を招いてデモンストレーションを見せ、ヘリコプターの開発に強い意欲を示した。さらに大きな休育館の中で屋内飛行もやって見せる。操縦はカールソン。何度か離着陸を繰り返し、ゆっくりと屋内を回ったのち、ホール中央部でホバリングに入った。そのときへりコプターの片脚はアーサー・ヤングの高く伸ばした手のひらに乗っていた。

 1944年7月4日にはシップ1の復元もでき上がった。同機は一部か改められ「シップ1A」と名づけられた。

契約外の3号機も製作

 1945年に入ると、ヤングのヘリコプター・チームはひそかに3号機の製作を始めた。これはベルとの契約にはないことで、予算的な裏付けもなかった。しかし、今までの2機のヘリコプターの試験飛行から得られた知見を生かし、テスト結果のすべてを注ぎこんだ3号機をつくらなければ、契約の精神は達成されたことにならないというのがヤングの考え方であった。

 彼らは、本来の仕事が終わったあとの余暇を利用し、部品の一部はほかのプロジェクトからくすねてきて、寄せ集めによって新しい「シップ3」をつくり上げた。初飛行は1945年4月20日。このことを知ったベル社の経営陣は、試験飛行だけという条件つきで、多少の出費を認めた。

 しかし試験飛行が進み、安全なオートローテイションを繰り返してゆくうちに、チームの中に、この機体はわずかな手直しだけで実用になるという確信が広がった。

 そこからモデル47がを生まれる。モデル30の操縦席を透明な樹脂ガラスのバブル・キャノピーで覆ってキャビンとしたが、このわずかな違いだけで飛行性能が良くなり、視界も広がった。ただしテールブームはシップ3と同じように外板をつけず、骨組みがむき出しのままであった。

 このモデル47原型機は1945年12月8日にロールアウトし、同じ日に初飛行した。操縦はフロイド・カールソン。46年に型式証明を取り、年末に量産1号機がアリゾナ・ヘリコプター社へ引き渡された。以来、1973年末に生産を終了するまでの30年近い間に、ベル47シリーズはおよそ5,000機が生産され、世界中の軍民両用に広く使われた。


試作3号機
7人が乗って、搭載能力の大きさを誇示
操縦席の向こう側に立って、こちらを見ているのがアーサー・ヤング
ここからベル47へ発展した

(西川 渉、ベル・ヘリコプター創立80周年記念レセプションの日、2016.6.7)

【関連頁】

  <ヘリヴィア―5>ヘリコプターの父(2016.6.4)
  <ヘリヴィア―4>近代化への歩み(2016.6.2)
  <ヘリヴィア―3>初めて人を乗せて飛ぶ(2016.5.26)
  <ヘリヴィア―2>ローター機構の進歩(2016.5.21)
  <ヘリヴィア―1>らせん翼の着想(2016.5.18)
  <ヘリワールド2016>ヘリコプター博学知識(2015.11.26)

    

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