<小言航兵衛>

原発黙示録

 チェルノブイリ(1986年)以降の日本の動きは、科学技術庁、通産省などの政府当局者も、原発をかかえた自治体当局者も、電力会社の担当者も、おうむがえしに「わが国への放射能の影響は心配ない」「わが国では考えられない事故」「わが国の原子力発電所は安全である」と述べ、そのように書いたチラシ、文書、パンフレットを大量に配布した。たとえば原発銀座をかかえる福島県は1986年6月7日『アトムふくしま』の号外を出し、その中で次のように述べている。

「我が国においては、原子力の設置にあたって電気事業法、原子炉等規制法によるきびしい国による審査が行われており、我が国の軽水炉は、放射性物質を閉じ込めるため、原子炉圧力容器、格納容器、原子炉建屋等の五重の防壁が設けられ、さらに事故の発生を未然に防ぐための安全防護装置、万一事故が起った場合の原子炉の緊急停止などの安全保護動作、非常用炉心冷却装置が設けられています。さらに地震等の自然災害に対する防護も設けられており、これらの多重多様の対策により、万一事故が起こっても大事故にいたらないようになっています。この他、日常の点検、法律に基づく年一度の原子炉を止めての定期点検など詳細な点検、検査が行われています」

 日本では「国による審査」がおこなわれているというけれど、原発を推進する通産省や科学技術庁の指定する、ごく少人数で電力業界寄りのおかかえ御用学者が、炉心溶融のような大事故は起こりえないという前提のもとで、厖大な書類をごく形式的に審査しているにすぎない。とても「きびしい審査」といえるものではない。

 日本の原発は、米国から輸入したものを改良しているにすぎず、軽水炉は、炉心がコンパクトで燃料集合体が密集しているので、炉心溶融を起こすとチェルノブイリ並みの大惨事になりかねない。

 「万一の場合、炉心冷却装置が設けられているから安全だ」というが、ソ連の場合も三種類の炉心冷却装置がついており、事故の時は作業員のミスもかさなって、まったく役にたたなかった。

 米国の実験でも、これまでの事故の経験から、炉心溶融のような最悪の事故の場合は、炉心冷却装置はほとんど役に立っていない。百歩ゆずって、大事故の際、格納容器や炉心冷却装置が有効に働いて暴走を防げたとしても、すでに炉心は破損しており、原発としての用をなさす、内部の除染や死の灰の管理に無制限に費用がかかり、永久に放射能の墓場と化してしまう。

 「日本では定期点検がおこなわれている」というが、それにもかかわらず、燃料被覆管の欠損、バルブ等からの冷却水もれ、細管の損傷、蒸気発生器の亀裂など無数の事故や異常が日常茶飯事的に繰り返されており、定期点検のたびに故障箇所が見つかっている原発が多い。また、稼動率をあげるために、定期検査の期間を短縮、簡略化さえおこなっているのである。もう一点だけつけ加えていえば、米国のセイラム原発で加圧水型原子炉の自動停止装置が作動しない事故が起こっているが、これは大事故の発生を未然に防ぐ要の部分といわれ、当然、日本の同型炉でも問題となった。原子炉大事故を完璧に訪ぐきめ手になるものはなにもないといったほうがよい。

 原子力ラッパ手たちは、どこかで事故が起こるとかならず「予想もしなかったことが起こった」といって責任のなすり合いをするのが常である。「事故は絶対起こりえない」というのは推進派の願望にすぎないのであり、実際は「事故は絶対に起こってほしくない」というのが本音なのである。しかし「事故は絶対に起きる」のが現実なのだ。

 ソ連はスリーマイル島事故(1979年)の時「わが国では、このような事故は起こりえない」と胸をはっていた。「自分のところは絶対大丈夫」といっている国ほどあぶないのである。

 以上は、昨日か今日にでも書かれた文章のように見えるが、実は24年前の本『チェルノブイリ黙示録』(久慈力著、新泉社、1987年5月15日刊)からの引用である。引用が長くなったのは、この本が絶版のために読みたくても読めない人が多かろうと思ったからである。

 著者は、原子力発電所を推進してきた人物たちをラッパ手にたとえ、スリーマイル島事故のあとも相変わらずラッパを吹き鳴らし「米国で起こっても、日本では起こらない」「安全審査の厳しさが違う」「事故を起こした原子炉と型が違う」「たいした事故ではなかった」などとうそぶいていた。そうした言動が四半世紀を経て、いま日本でも恐ろしい結果を招いたのである。

 しかも航兵衛などは、原発の事故というものはそんなにしばしば起こるものではなく、大地震と大津波のために初めて起こったのかと思っていた。ところが実際は、上の『黙示録』にあるように日常茶飯事だったらしい。航空事故などは勿論、日常茶飯事であろうはずもないが、軽飛行機が不時着しただけで新聞のニュースになる。しかるに原発事故がこれまで表面化しなかったのは、今の安全保安院や経産省や御用学者など電力会社に群がった当事者たちが口をぬぐって知らぬ顔、というよりも表面化せぬように抑えこんできたからである。しかし、小さな事故が表面化しようとしまいと、積み重なったあげく大きな事故につながることは事故というものの基本原理で、最も注意すべきことにほかならない。

 もう一つ腑に落ちぬのは福島県の知事を初め、市町村の首長たちがまるで物乞いのように、東電や官邸に出かけて行っては補助金や賠償金をせびる姿である。しかし実は、彼らもまた共犯者ではなかったのか。上の文章にある『アトムふくしま』なる文書が住民に向かって原発の安全を説いていることでも示される通りで、首長たちも今さら被害者面などできぬはず。

 御用学者ならぬ航兵衛としては、ここで東京電力の肩を持つつもりはないが、いつの間にか東電だけが悪者にされてしまった。失策も汚名も賠償も、すべてを東電に押しつけて逃げようという魂胆が、特に官房長官や経産大臣や、その配下にある安全保安院の記者会見では見え見えだ。昨日は東電社長が辞任の意向を発表したようだが、さぞかし政治家や官僚も胸をなでおろしたことであろう。社長1人に責任を押しつけて、わが身は安泰と思ったに違いない。しかし最大の悪は彼らであって、上の本の中にも中曽根康弘を初め、政界、財界、学会のかつての大物たちが高らかにラッパを吹いていたようすが書かれている。

 無知な航兵衛は、わが原子力発電の安全について何の疑問も持たなかった。しかし考えてみれば航空と同じく原発にも「絶対安全」などはなかったのである。航空界で事故はパイロットだけの責任などといっていては、たちまち事故が頻発するであろう。航空会社の社長以下、平社員に至るまで誰もが安全に向かって注意を払い、航空局も空港もメーカーも研究者も、メディアや乗客ですら安全上さまざまなかかわりを持っていることを忘れてはならない。

 とすれば、原発の安全も東電だけの問題ではなかったはず。その周囲に群がった御用学者や安全保安院はもとより、官僚も政治家も原発の安全をわが事として考え、行動してくるべきであった。

 しかるにアリマキ(アブラムシ)にたかるアリのように甘い汁だけを吸って、アリマキの体力が尽きれば知らぬ顔で逃げてゆく。

 福島原発の事故は東電の社長ひとりが辞任するだけですむような問題ではない。いずれ、政治家や官僚や学者たちにも責任を取って貰わねばなるまい。

(小言航兵衛、2011.5.22)

【関連頁】
   <原発事故>ある英雄パイロットの死(2011.4.25)
   <小言航兵衛>核戦争が始まった(2011.4.16)
   <小言航兵衛>日本メルトダウン(2011.4.12)
   <小言航兵衛>放射能下に生きる(2011.4.9)
   <小言航兵衛>原子炉注水(2011.3.19)
   <小言航兵衛>天罰(2011.3.17)

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