<原発事故>

ある英雄パイロットの死

 原子力発電所の4号炉が暴走を始めた。ちょっとしたテストをしようとして、操作員が手順を間違えたのだ。核反応が次々と起こり、制御の限界を超えたのは深夜1時6分。その18分後に大爆発が起こった。

 大勢の即死者が出たところへ、消防士、技術者、医師などが駆けつけた。放射線の測定値は針が振り切れたが、消防隊は測定器具の故障とみなして消火活動を続けた。しかし大量の放射線を浴びた消防士たちが数時間のうちに死亡したことから、発電所の幹部や政府高官たちは、これが恐れていた原子力事故であることを思い知った。

 原子力の専門家、技術者、原子炉設計者などが呼び集められ、大型ヘリコプターで爆発した原子炉上空に向かった。しかし炉内の様子はよく見えない。ヘリコプターは少しずつ高度を下げ、原子炉の熱が上昇気流となって機体を揺さぶるところまで下がった。

 彼らがそこで見たものは、巨大な圧力容器が大きく裂けて真っ赤な口をあけ、激しい核反応が続く地獄であった。制御棒も見えなくなっており、炉心溶融が進んで、いわゆる「チャイナ・シンドローム」に至るものと思われた。

 それを防ぐには、制御不能となった原子炉の火を早く消さなくてはならない。そのため政府は国中の炭化ホウ素を集め、砂と共に、ヘリコプターで炉心に向かって投下することにした。パイロットたちは100メートル近い長吊りにして、放射線と熱風の中でホバリングを繰り返し、燃えさかる白熱の炎に向かって持ってきたものを投下した

 初めのうち、パイロットの受ける放射線の許容量に定めはなかった。彼らは適当な時間を飛ぶと水の使える基地に戻り、ヘリコプターを洗い、自分たちもシャワーを浴びて衣服を着替えた。それから再び新たな資材を吊って原子炉に向かい、作業を続けた。こうして1週間足らずの間に、4,500トンの砂と2,500トンの鉛が投下された。

 しかし燃料棒の温度はなかなか下がらず、地上では原子炉が炉心溶融によってコンクリートの土台を突き抜けるのを防ごうと、土台の下を凍らせるためにトンネルを掘る作業が続いていた。これには軍の兵士が動員されたが、彼らの浴びる放射線量はすぐ限界に達するため、数分おきに次の兵士が交替し、新しいシャベルで穴を掘るといったありさまだった。

 以上は1986年4月25日、当時ソ連領だったウクライナのチェルノブイリで起こった原発事故の一端である。ソ連政府はこうした事態を知りながら、原子炉爆発を公表せず、数日後スウェーデンで大気中に高濃度の放射線が検知されるまで事実を認めようとしなかった。

 この間、最初に駆けつけた人びとは苦しみながら死んでいった。また付近の住民は何も知らされぬまま不意に退去を命じられ、着の身着のままでバスに乗ってキエフへ運ばれた。そして、ほぼ1ヵ月後、核反応がようやく落ち着いたところで、4号炉全体を石棺の中に封じこめることになった。

 チェルノブイリに多数のヘリコプターが集められた。ミルMi-8からMi-26までのさまざまな大型ヘリコプターが生コン輸送などをして石棺建設に従事した。そのうちに核反応も止まり、石棺づくりが本格化して、土木クレーンが使われるようになった。しかし、高いところの作業にはヘリコプターが必要で、最後の仕上げは石棺の蓋を最頂部に取りつける仕事であった。

 ミルの技術者たちはMi-26を改造し、吊り上げ作業に必要な装備以外はことごとく取り外し、標準ペイロード20トンの搭載量を35トンまで増やした。

 蓋をかぶせる作業は、きわめて困難と思われた。重さ30トンほどの蓋を吊り上げ、所定の位置に設置しなければならない。パイロットは自らの危険を無視しなければ実行できるような任務ではなかった。しかし、ここで今、危険か安全かを論じている暇はない。

 その任務が与えられたのは、アナトリー・グリシュチェンコ機長。グロモフ飛行研究センターのテスト・パイロットで、ヘリコプター吊り上げ重量の記録保持者でもあった。その名声にたがわず、1986年夏の終わり、任務は成功した。そして放射能から人類を救ったという功績によって、ソビエト連邦英雄勲章を授与された。

 チェルノブイリ原発4号炉に向かったヘリコプターは、出動回数が約2,000回。パイロットたちは誰もが大量の放射線を浴びて発病した。いったんは回復したかに見えた人も、ほぼ全員が死亡した。グリシュチェンコ機長も例外ではなく、白血病におかされていた。正確には「再生不良性貧血」――骨髄が血液細胞をつくる能力をなくす病(やまい)で、骨髄移植が必要だった。

 しかしソ連では治療不可能と考えられたため、東西冷戦の時代にもかかわらず、米ソ両国の大勢の人びとが協力し合い、アメリカで移植手術を受けることになった。入院先はシアトルのフレッド・ハッチンソン癌センター。

 グリシュチェンコ機長がシアトルに到着したのは1990年4月11日。チェルノブイリの事故から丁度4年目である。移植手術は成功であった。折からゴルバチョフ大統領がアメリカ訪問中で、ワシントンからシアトルまで特使を送って自筆の感謝状を届けさせた。ところが、それから間もなく英雄グリシュチェンコは肺の感染症にかかって、あっけなく他界した。7月2日のことである。

 ソ連政府が公式に認めたチェルノブイリ事故の死者は31人にすぎない。しかし西側諸国は200〜300人と推定した。さらに被曝者は幼児を含めて数十万人とか、数百万人に上るともいい、後遺症に苦しんだ人も少なくない。

 今、東日本大震災の被害を受けた原子力発電所の事態収拾の推移を見ていて、現場作業に従事する方々の無私の気持、崇高な精神には頭の下がる思いがする。これがチェルノブイリの二の舞にならぬことを願うばかりである。

(西川 渉、『航空情報』2011年6月号掲載)


チェルノブイリ収拾作業のあと、放射能を帯びて
使えなくなったヘリコプターと地上車両


石 棺

【関連頁】
   <小言航兵衛>核戦争が始まった(2011.4.16)
   <小言航兵衛>日本メルトダウン(2011.4.12)
   <小言航兵衛>放射能下に生きる(2011.4.9)
   <小言航兵衛>原子炉注水(2011.3.19)
   <小言航兵衛>天罰(2011.3.17)

【関連頁02】東海村事故を考える
 
 原子時代から原始時代へ(1999.10.)
   原始時代から脱け出せ(1999.10.16)

 

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