<ヘリヴィア>

同軸反転機とタンデム機 

(ヘリヴィア=ヘリコプタ+トリヴィア)

スタンレー・ヒラー

 アメリカではローレンス・ベルとアーサー・ヤングに続いて、スタンレ−・ヒラー・ジュニアがヘリコプターの開発を進めていた。

 ヒラーは自動車の設計技師だったが、子どものときフォッケFw61やシコルスキーVS-300の写真を見てヘリコプターに興味を持ち、1940年ヘリコプターの製作に乗り出した。最初のXH-44は1944年7月、アメリカ初の同軸反転式ローターを持つヘリコプターとして初飛行に成功するが、このときヒラーはまだ19歳だった。2人乗りの同機は1944年8月、サンフランシスコで公開飛行をして見せた。


同軸反転ローターのXH-44

 しかし、やがてヒラーはシコルスキーやベルと同じシングル・ローター形式に同調するようになり、1947年「ローターマティック」と呼ぶ操縦機構を生み出す。これは主ローターの下に「コントロール・パドル(かい)」と呼ぶ小さなサーボ・ローターを直角に取りつけ、これを先ず操縦桿で動かすことによって主ローターの回転面を動かし、操縦するという方式である。この機構は安定性にもすぐれ、1947年に飛んだモデル360は早くも手放し飛行が可能であった。

 モデル360は後にヒラーUH-12シリーズに発展、操縦性の良さを買われてアメリカ陸海軍に採用され、1948年には民間型式証明を取得、49年量産に入った。そして最初の1年間に82機を生産したが、これは他のヘリコプター・メーカーの全てを合わせたよりも多かった

 この年、同機はアメリカ大陸横断にも成功したが、これはヘリコプター初の記録である。

 1949年始め、ベトナムがまだインドシナと呼ばれていた頃、朝鮮戦争の前であったが、ベトナムがフランスと戦ったインドシナ戦争の中で2機のヒラー360がフランス軍負傷兵の救出に使われた。機内に救急装備をつけ、胴体側面に患者搬送用のリッターを取りつけていた。そのパイロットの1人はフランス陸軍の軍医をしていた女性で、みずからこのヘリコプターを操縦して負傷兵の救護に当たったという。


ヒラー360

  戦後の日本で初めて飛んだ民間ヘリコプターも、このヒラー・ヘリコプターであった。昭和27年(1952)に産経新聞社が輸入したUH-12Bで、宣伝飛行や取材飛行に使われた。

フランク・パイアセッキ

 タンデム・ローター・ヘリコプターは、アメリカ人フランク・パイアセッキが1940年に設立したパイアセッキ・ヘリコプター社によって開発された。

 最初の試作機PV-3は、胴体の前後にローターを持ち、1945年3月に初飛行した。その利点は2つのローターを反転させることで、トルクを打ち消す必要がないため、エンジン出力の全てを揚力と推力に当てることができる。また前後の重心位置の範囲が広くなるので、シングル・ローター機のように人や物の搭載が重心位置のせまい範囲に限定されなくなる。


空飛ぶバナナ

 のちにPV-3はH-21として米陸・海・空軍に採用され、1947年から実用化される。同機は「空飛ぶバナナ」の愛称をもっていた。これは前後のローターがぶつからないように、胴体の後ろ半分が跳ね上がっていたからであった。機内はストレッチャー6人分または貨物の搭載が可能で、600馬力のプラット&ホイットニーワスプエンジンを備え時速193キロで飛行した。

 その後パイアセッキ・ヘリコプター社は、創立者のパイアセッキが退くと、1956年バートル社と改称し、60年にボーイング社の傘下に入ってボーイング・バートル社となった。


空飛ぶバナナから発展した現在のチヌーク大型機

(西川 渉、2016.6.11)

【関連頁】

  <ヘリヴィア―6>ベル・ヘリコプター(2016.6.7)
  <ヘリヴィア―5>ヘリコプターの父(2016.6.4)
  <ヘリヴィア―4>近代化への歩み(2016.6.2)
  <ヘリヴィア―3>初めて人を乗せて飛ぶ(2016.5.26)
  <ヘリヴィア―2>ローター機構の進歩(2016.5.21)
  <ヘリヴィア―1>らせん翼の着想(2016.5.18)
  <ヘリワールド2016>ヘリコプター博学知識(2015.11.26)

    

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