<本の栞>

原発事故報告書

 原子炉、もしくは原子力発電所が事故を起こした場合、その原因調査は航空事故や鉄道事故の調査とは大きく異なる。原因と思われる部材や部所に放射能があって、人が近づいたり、手にとって調べたりすることができないためである。したがって、原因解明の結果はどうしてもあいまいにならざるを得ない。

 しかし、と『「原発事故報告書」の真実とウソ』(塩谷喜雄、文春新書、2013年2月20日刊)の著者は考える。福島原発の事故に際して「なぜ事故調が4つもあるのか」という素朴な疑問と大きな怒りである。しかも、それぞれの報告書がむやみに分厚い。政府事故調のそれは1500頁を超え、重さにして10キロに近い。

 そのうえ、これらはほとんど同じ時期に、同じような証言やデータにもとづいてまとめられた。それでいて相互の交流は全くなく、無視し合ったまま別個に結論を出している。それも全く反対の結論が見られる。あいまいどころの話ではない。

 たとえば安全上重要な機器とシステムの損壊について、政府事故調は「壊れた証拠は見つからないから、壊れていない」と推認し、国会事故調は「壊れた可能性を示唆する証拠もある」という。

 さらに東電の事故調は、巨大な津波が原因であり、地震では無傷だったと書き、民間事故調は「実際の破損状況はわからない」としている。

 こんなばらばらの結論では、どの調査も信頼できなくなる。結局は、国民の誰もが4つの報告書を詳しく読んで、勝手に判断しろと投げ出しているだけだ、と著者はいう。

 しかもメディアまでが、これらの報告書を比較検討したり、解説や論評を加えようとしない。さらに不可解なのは、東電みずから調査をして、自分の不利にならぬような結論を出している。いうなれば犯罪事件の容疑者が自分で捜査をし、裁判をして、判決まで出しているのだ。

 つまり、世界中が不安の目で見守っている問題にもかかわらず、こんなことでは日本が国際的無責任国家といわれることになりかねない――というのが本書の見方である。

 そうした前提を置いたうえで、本書は4つの報告書を比較する。

 国会事故調は「法律によってその設置と運営、権限が規定された唯一の事故調」で、「国会に証人を喚問し、証言を求めることもできる」。その結果、「全体としての結論は大胆」で、「安全規制当局が事業者に従属するという逆転現象」から「必然的に発生した『人災』だと、かなり踏み込んで断定している」。つまり「大地震、大津波によるやむなき自然災害などではなく、備えと対応がまともなら防ぎ得た『人災』というのが、報告の骨格」である。著者は、これに点数をつけ、5点満点中3点半とする。

 政府事故調の報告書は「責任追及を目的」としていないため、緻密な調査活動をしながら、結論はあいまいでゆるく、「どこか他人事のような一般論」になっている。「まさに『審議会答申』の類型そのもの」に終っていて、点数は3点。

 民間事故調は、責任追及の矛先を政治家や官邸スタッフに向け「海水注入に関する菅首相の過剰介入は、現場を混乱させる」だけだったと指摘している。しかし著者によれば「事故は官邸で誰かがボタンを押し間違えて発生したわけではない」。事故の本質を取り違えて「東電の事業者責任にはほとんど触れず、『政府が悪い』の大合唱はいささか異様」で、これも3点。

 東電事故調の報告書は「責任逃れに終始」していて「これほど胸の悪くなる文書は、そうざらにない」「大事故を起こした当事者企業が……大部の報告書中で『責任』や『謝罪』という言葉を一度も使っていない」「東電に落ち度はない、と言い訳する材料として提示されているに過ぎない」「言い逃れを重ねる狡猾と厚顔には呆れ果てるしかない」というのが著者の評価で、点数は0点どころかマイナス1点。

 以下、本書は事故原因は地震ではなかったのか、それとも津波が原因なのか、炉心溶融は防げなかったのか、官邸の介入は無用だったのか必要だったのか、事故調が調べなかった原発のリスク、アカデミズムとジャーナリズムの罪などについて、4つの報告書を引用しながら論じていく。

 たとえば地震については、東電事故調は「できるだけ無視、素通りしようとして」「わずか半ページの言及」しかしていない。そのうえ「基礎版上」とか「基準地震動Ss]とか「最大応答加速度」とか「はぎとり波」とか分かりにくい専門用語を使って、読むものを煙に巻く。「そこまで東電が嫌がることは、ひょっとして、地震問題にこそ事故の真相を解くカギが隠れている」のかもしれないことを疑わせる。

 一方、国会事故調は「可能なかぎり解明」しようと努力しており「地震の揺れで原発の据え付け部分のどこかが壊れていてもおかしくない」という。

 それに対して政府事故調の報告書は「わずか2行のコメントがあるだけで……解説や解析とは言い難い……東電の出してきたデータをそのまま載せた」に過ぎない。ということは「地震動については、何かを検討したり評価したりするつもりはなかったのだろう」

 こうした4つの報告書とは別に、日本政府みずからも報告書をつくり、2011年6月IAEA(国際原子力機関)に提出している。その「内容は明らかに、東電からの情報をただなぞったとされる原子力安全・保安院の報告が骨格になっている」。したがって「地震動は一部が想定を上回ったものの、おおむね想定内で、事故はすべて想定外の大津波による全電源の喪失によって引き起こされた、やむを得ない自然災害、という筋書きである」

 同じように民間事故調も、地震については「わずか3分の1ページの言及」があるのみ。メンバーに地震学者がいなかったからかもしれない。

 けれども、最近はむしろ地震によって原子炉が破損し、それが問題の起点とする見方が広がっている。そのことからすれば、高い「学識と見識」をもった「孤高の地震学者、石橋克彦氏」によって「鋭い分析」を加えた国会事故調を除いては、他の3つの調査は、地震を無視した点で意味がなかった(ナンセンス)というべきかもしれない。

 誰が見たって、福島原発の事故は、あの大地震がなければ起こり得なかった。肝腎かなめの問題に目をつぶったままの事故調査がエライ先生方の多大な時間とエネルギーをかけておこなわれ、膨大な報告書となって無駄に積み上がっていることを本書によって知ることができる。

 そこで思い出すのは、チェルノブイリの原発事故である。あのときの事故調査の結果はソ連国内で高い評価を得た。しかし国際的には機密扱いとされ、報告書の一部が削除され、口を封じられた調査委員長の物理学者が良心の呵責に耐えかねて自殺をしている。

 日本のエライ先生方の良心を問いたい。

(西川 渉、2014.2.9)

    

【関連頁】

   <野次馬之介>福島原発を見る(6)(2014.1.31)
   <野次馬之介>福島原発を見る(5)(2014.1.26)
   <野次馬之介>福島原発を見る(4)(2014.1.21)
   <野次馬之介>福島原発を見る(3)(2014.1.19)
   <野次馬之介>福島原発を見る(2)(2014.1.16)
   <野次馬之介>福島原発を見る(1)(2014.1.15)

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